學道用心集

永平初祖學道用心集
永平初祖學道用心集
永平初祖學道用心集
永平初祖學道用心集

學道用心集』について

 

『學道用心集』は道元禅師が佛道に參禪學道する者の用心すべき事を記したもので、全篇十章からなっており、天福2年(1234)3月頃より書かれた。

この『學道用心集』(第三章)「佛道は必ず行に依て證入すべき事」の末に「天福二甲午三月九日書す」とあり、さらに(第六章)「參禪に知るべき事」の末には「天福甲午清明の日書す」と書かれている。

この様な記を書かれた場合、その最後に年月日を記すのが普通であるが、この『學道用心集』には途中に二回、記した年月日が書かれている。

察するに、最初「菩提心を発すべき事」など三章を記し、後「參禪に知るべき事」の三章を加え、さらに「直下承當の事」に至る四章を書き加えられたもので、全篇十章を同時期に記るされた訳ではないが、しかし、天福2年頃の比較的早い時点で、參禪學道する者の爲に全篇十章を纏められたものであろう。

尚、章別になっているが、章の番号は振られていない。

便宜上、後世の學者が各章の番号を入れたものである。

 


 

學道用心集

 

目次

(一)菩提心を發すべき事

(二)正法を見聞して必ず修習すべき事

(三)佛道は必ず行に依て證入すべき事

(四)有所得の心を用つて佛法を修すべからざる事

(五)參禪學道は正師を求むべき事

(六)參禪に知るべき事

(七)佛法を修行して出離を欣求する人は須く參禪すべき事

(八)禪僧行履の事

(九)道に向つて修行すべき事

(十)直下承當の事

 


學道用心集

 

(一)菩提心を發すべき事

 

右、菩提心は多名一心なり。竜樹祖師の曰く、唯だ世間の生滅無常を觀ずる心も亦菩提心と名づくと。

然らば乃ち暫らく此の心に依るを、菩提心と爲すべきものか。

誠に夫れ無常を觀ずる時、吾我(ごが)の心生ぜず、

名利の念起らず、時光の太だ速かなることを恐怖(くふ)す。

所以に行道は頭燃を救ふ。

身命の牢(かた)からざることを顧眄(こめん)す、

所以に精進は翹足(ぎょうそく)に慣ふ。

縦ひ緊那迦陵(きんなかりよう)讃歎の音聲を聞くも、夕べの風、耳を拂ふ。

縦ひ毛牆西施(もうしゅうせいし)美妙の容顔を見るも、朝の露、眼を遮ぎる。

已に聲色の繋縛(けばく)を離るれば、自(おのづか)ら

道心の理致に合(かな)わんか。

往古來今、或は寡聞(かもん)の士を聞き、或は少見の人を見るに、多くは名利の坑(きょう)に堕して、永く佛道の命(みょう)を失す。

哀しむべく、惜しむべし、知らずんばある可からず。

縦ひ権実(ごんじつ)の妙典を讀む事有り、縦ひ顕密の教籍(きょうじゃく)を傳ふる事有るも、未だ名利を抛(なげう)たずんば、未だ發心と称せず。

有(ある)が云く、菩提心とは、無常正等覺心なり、名聞利養に拘わる可からず。

有が云く、一念三千の觀解(かんげ)なり。

有が云く、一念不生の法門なり。

有が云く、入佛界の心なりと。

是の如きの輩(ともがら)は、未だ菩提心を知らず、猥(みだ)りに菩提心を謗す。

佛道の中に於て遠くして遠し。

試みに吾我名利の當心を顧みよ、一念三千の性相を融ずるや否や。

一念不生の法門を證するや否や。

唯だ、貪名愛利の妄念のみ有つて、更に菩提道心の取る可き無きをや。

古來、得道得法の聖人、同塵の方便有りと雖も、未だ名利の邪念有らず。

法執すら尚ほ無し、況や世執をや。

所謂、菩提心とは、前來云ふ所の無常を觀ずるの心、便ち是れ其の一なり。

全く狂者の指さす所に非ず。

彼の不生の念、三千の相は發心以後の妙行なり。

猥るべ可らざるか。

唯だ、暫く吾我を忘れて潜かに修す、乃ち菩提心の親しきなり。

所以に六十二見は我(が)を以て本(もと)と為す。

若し我見を起る時は、靜坐觀察せよ。

今我が身體内外の所有、何を以つてか本とせんや。

身體髪膚は父母に稟(う)く、赤白(しゃくびゃく)の二滴は始終是れ空なり。

所以に我に非ず。

心、意、識、智、寿命を繋(つな)ぐ、出入の一息、畢竟如何。

所以に我に非ず、彼此(ひし)執るべき無きをや。

迷ふ者は之れを執り、悟る者は之れを離る。

而るに無我の我を計し、不生の生を執す。

佛道の行ずべきを行ぜず、世情の斷ずべきを斷ぜず。

實法を厭ひ、妄法を求む、豈に錯らざらんや。

 

(二)正法を見聞して必ず修習すべき事

 

右、忠臣一言を献ずれば、數(しばしば)廻天の力あり。

佛祖一語を施さば廻心(ゑしん)せざる人莫(な)し。

自ら明主に非ずんば忠言を容るること無く、

自ら抜群に非ずんば佛語を容るること無し。

廻心せざるが如きは順流生死之れ未だ斷ぜず。

忠言を容れざるが如きは、治國德政之れ未だ行はれざるなり。

 

(三)佛道は必ず行に依て證入すべき事

 

右、俗に曰く、學べば乃ち祿(ろく)其の中(うち)に在りと。

佛の言(のたま)はく、行ずれば乃ち證、其の中に在りと。

未だ嘗て學ばずして祿を得る者、行ぜずして證を得る者を聞くことを得ず。

從ひ行に信法頓漸の異あるも、必ず行を待つて超證す。

從ひ學に淺深利鈍の科(しな)あるも、必ず學を積んで祿に預る。

是れ乃ち獨り王者の優と不優と、天運の應と不應とに由るべきに非ざるか。

若し學に非ずして祿を受くる者ならば、誰か先王理亂の道を傳へん。

若し行に非ずして證を得る者ならば、誰か如來迷悟の法を了ぜん。

識る可し、行を迷中に立てて證を覺前に獲ることを。

時に始て船筏の昨夢を知つて、永く藤虵(とうだ)の舊見を斷ず。

是れ佛の強爲(ごうい)に非ず。

機の周旋(しゅうせん)せしむる所なり。

況んや行の招く所は證なり。

自家の賓藏、外より來らず。

證の使ふ所の者は行なり。

心地の蹤跡、豈に廻轉すべけんや。

然れども若し證眼を廻(めぐら)して行地を顧みれば、

一翳(えい)の眼に當る無く、將に見んとすれば白雲萬里。

若し行足を擧して證階に擬すれば、一塵の足に受くる無し、

將に蹈まんとすれば天地懸隔す。

是に於て退歩せば佛地を■(足孛)跳(ぼっちょう)せん。

 天福二甲午三月九日書す。

 

(四)有所得の心を用つて佛法を修すべからざる事


右、佛法修行は必ず先達の眞訣を禀けて、私の用心を用ゐざるか。
況んや佛法は有心(うしん)を以て得べからず、無心を以ても得べからず。
但だ、操行の心と道と符合せざれば、身心未だ嘗て安寧ならず。
身心未だ安寧ならざれば、身心安樂ならず。
身心安樂ならざれば、道を證するに荊棘生ず。
所謂、操行と道と合して、如何が行履せん。
心取捨せず、心名利無きなり。
佛法修行は是れ人の爲に修せず。
今世人の如きは佛法修行の人、其の心と道と遠くして、これ遠し。
若し人、賞翫(しょうかん)すれば從ひ非道と知るも、乃ち之を修行す。
若し恭敬讚歎せずんば、是れ正道と知ると雖も、棄てて修せず。
痛ましき哉。
汝等試みに心を静かにして觀察せよ。
此の心行、佛法と爲(せ)んや。
佛法に非ずとせんや。
恥づべし、恥づべし。
聖眼の照らす所なり。
夫れ佛法修行は尚ほ自身の爲にせず、況んや名聞利養の爲に之を修せんや。
但だ佛法の爲に之を修すべきなり。
諸佛の慈悲、衆生を哀愍するは、自身の爲にせず、
他人の爲にせず、唯だ佛法の常(つね)なり。
見ずや、小虫畜類すら、其の子を養育するに、身心艱難し、
經營辛苦して、畢竟長養するに父母に於て終に益なきをや。
然れども子を念ふの慈悲あり。
小物(しょうもつ)すら尚ほ然り。
自ら諸佛の衆生を念ふに似たり。
諸佛の妙法は、唯だ慈悲一條のみにあらず、普ねく諸門に現ず。
其の本(もと)皆然なり。
既に佛子(ぶっし)爲り。
盍(いづく)んぞ佛風に慣はざらんや。
行者自身の爲に佛法を修すと念ふべからず、
名利の爲に佛法を修すべからず、
果報を得んが爲に佛法を修すべからず、
靈験を得んが爲に佛法を修すべからず、
但だ佛法の爲に佛法を修す、乃ち是れ道なり。

 

(五)參禪學道は正師を求むべき事


右、古人云く、發心正しからざれば萬行空しく施すと。
誠なる哉この言。
行道は導師の正と邪とに依るべきか。
機は良材の如く、師は工匠に似たり。
縦ひ良材たりと雖も、良工を得ずんば、奇麗未だ彰(あらは)れず。
縦ひ曲木と雖も若し好手に遇はば妙功忽ち現ず。
師の正邪に隨つて、悟の眞僞あり。
之を以て曉(さと)るべし。
但し我が國は昔より正師未だ在らず。
何を以て之が然るを知らんや。
言を見て察するなり。
流れを酌んで源(みなもと)を討(たづ)ぬるが如し。
我が朝、古來の諸師、篇集の書籍、弟子に訓(おし)へ人天に施す、
其の言、是れ青く、其の語未だ熟せず、未だ學地の頂きに到らず。
何ぞ證階の邊(ほと)りに及ばん。
只だ文言を傳へて、名字を誦せしむ。
日夜他の寶を數へて、自ら半錢の分無し。
古(いにしへ)の責(せめ)之に在り。
或は人をして心外の正覺を求めしめ、或は人をして他土の往生を願はしむ。
惑亂此れより起り、邪念此れを職(もと)とす。
縦ひ良藥を與ふと雖も銷(しょう)する方を教へざれば、病と作ること、
毒を服するよりも甚だし。
我が朝、古へより良藥を與ふる人無きが如く、
藥毒を銷する師未だ在らず。
是れを以て、生病除き難く、老死何ぞ免(まぬが)れん。
皆これ師の咎(とが)なり、全く機の咎に非ず。
所以はいかん、人の師たる者、人をして本を捨て、
末を逐(お)はしむるの然らしむるなり。
自解(じげ)未だ立せざる以前、偏へに己我の心を専らにして、
濫(みだ)りに他人をして邪境に堕(おつ)ることを招かしむ。
哀れむべし、師たる者すら、未だ是の邪惑を知らず、
弟子、可為(なんすれ)ぞ是非を覺了せんや。
悲しむ可し、邊鄙の小邦、佛法未だ弘通せず、正師未だ出世せざる。
若し無上の佛道を學ばんと欲せば、遥かに宋土の知識を訪ふべし。
逈(はる)かに心外の活路を顧みるべし。
正師を得ざれば、學ばざるに如(しか)ず。
夫れ正師とは、年老耆宿(ぎしゅく)を問はず。
唯だ正法を明めて、正師の印證を得るものなり。
文字を先(さき)と爲(せ)ず、解會(げゑ)を先と爲ず、
格外の力量あり、過節の志氣ありて、我見に拘はらず、
情識に滞ほらず、行解(ぎょうげ)相應する、是れ乃ち正師なり。

 

(六)參禪に知るべき事


右、參禪學道は一生の大事なり、忽(ゆるが)せにすべからず。
豈に率爾ならんや。
古人臂(ひじ)を斷ち指を斬る、神丹の勝躅なり。
昔し佛(ほとけ)、家を捨て國を捐(す)つ、行道の遺蹤なり。
今人云はく、行じ易きの行を行ずべしと。
此の言(げん)尤も非なり、太だ佛道に合(かな)はず。
若し事を専らにして以て行を擬せば偃臥(えんが)猶ほ懶(ものう)し。
一事に懶ければ萬事に懶し。
易(やすき)を好む人は自ら道器に非ざることを知る。
況んや今世流布の法は、此れ乃ち釋迦大師、無量劫來、難行苦行して、
然して後に乃ち此の法を得たり。
本源既に爾り。流派豈に易かるべけんや。
道を好む士は易行に志すこと莫れ。
若し易行を求むれば定んで實地に達せず、必ず寶所に到らざる者か。
古人大力量を具するすら、尚ほ言ふ、行じ難しと。
識るべし佛道の深大なる事を。
若し佛道本より行し易き者ならば、古來大力量の士、難行難解と言ふべからず。
今人を以て古人に比するに、九牛の一毛にも及ばず。
而るに此の小根薄識を以て縦ひ力を勵まして、以て難行能行に擬するも、
猶ほ古人の易行易解にも及ぶべからず。
今人の好む所の易解易行の法とは、其れ是れ何ぞや。
已に世法に非ず、又佛法に非ず。
未だ天魔波旬の行にも及ばず。
未だ外道二乘の行にも及ばず。
凡夫迷妄の甚だしきと云ふ可きか。
縦ひ出離に擬すと雖も、還つて是れ無窮の輪廻なり。
其の骨を折り髄を砕くを觀るに亦難(かた)からずや。
心操を調(ととの)ふる事尤も難し。
長齋梵行も亦難からずや。
身の行を調ふるの事尤も難し。
若し粉骨貴ぶべくんば、之を忍ぶ者昔より多しと雖も、

得法の者、惟(こ)れ少なし。
齋行の者貴ぶべくんば、古へより多しと雖も、悟道の者惟れ少なし。
是れ乃ち心を調ふることは甚だ難きが故なり。
聰明を先と爲(せ)ず、學解を先と爲ず、心意識を先と爲ず、念想觀を先と爲ず、
向來都て之を用ゐずして、身心を調へて以て佛道に入るなり。
釋迦老子の云く、觀音流れを入(かへ)して所知を亡ずと、即ち之の意なり。
動靜の二相了念として生ぜず、即ち之れ調なり。
若し聰明博解を以て佛道に入るべくんば、神秀上座其の人なり。
若し庸體卑賤を以て、佛道を嫌ふべくんば、曹溪の高祖豈に敢てせんや。
佛道を傳へ得るの法は、聰明博解の外に在り、事是に於て明かなり。
探つて尋ぬべく、顧みて參ずべし。
又、年老耄及(ぼうきゅう)をも嫌はず。
又、幼稚壯齢をも嫌はず。
趙州は六旬餘にして始て參ず、然りと雖も祖席の英雄なり。
鄭娘(ていじょう)は十二歳にして久學す、能く又叢林の抜萃(ばつすい)なり。
佛法の威は加と不加との見(あら)はれ、參と不參とに分る。
或は教家の久習、或は世典の舊才も皆な禪門を訪ふべし。
其の例是れ多し。
南岳の慧思は多材の人なり、尚ほ達磨に參ず、永嘉玄覺は秀逸の士なり。
已に大鑑に參ず。
法を明め、道を得るは參師の力たるべし。
但だ宗師に參問するの時、師の説を聞いて、己見に同ずること勿れ。
若し己見に同ずれば師の法を得ざるなり。
參師問法の時、身心を淨らかにし、耳目を靜かにして、唯だ師の法を聽受して、
更に餘念を交へざれ。
身心一如にして、水を器に瀉(うつ)すが如くせよ。
若し能く是の如くならば、方に師の法を得ん。
今愚魯(ぐろ)の輩、或は文籍を記し、或は先聞を蘊(つつ)み、
以て、師の法に同ず。
此の時唯だ己見古語のみあつて、師の言未だ契(かな)はず。
或は一類あり、己見を先として、經巻を披き、一兩語を記持して、
以て佛法を爲す。
後に明師宗匠に參じて、法を聞くの時、若し己見に同ぜば是と爲し、
若し舊意に合(かな)はずんば、非と爲す。
邪を捨るの方を知らず、豈に正に歸するの道に登らんや。
縦ひ塵沙劫も尚ほ迷者たらん、尤も哀むべし。
參學して識るべし、佛道は思量と分別と卜度と觀想と知覺と慧解の外に在ることを。
若し此等の際に在らば、生來常に此等の中に在りて、常に此等を翫そぶ。
何が故ぞ、今に佛道を覺せざるや。
學道は思量分別等の事を用ふべからず。
常に思量等を帯びて、吾が身を以て檢點せば、是に於て明鑑なる者なり。
其の所入の門は、得法の宗匠のみありて之を悉(つまび)らかにす。
文字法師の及ぶ所に非ざるのみ。
 天福甲午清明の日書す。

 

(七)佛法を修行して出離を欣求する人は須く參禪すべき事

 

右、佛法は諸道に優れたり。

所以に人之を求む。

如來の在世には、全く二教なく、全く二師なし。

大師釋尊、唯だ無上菩提を以て、衆生を誘引するのみ。

迦葉正法眼藏を傳へてより以來、西天二十八代、東土六代、乃至五家の諸祖嫡々相承して、更に斷絶なし。

然れば則ち梁の普通中以後、始めて僧徒より、及び王臣に至るまで、抜群の者は歸せずといふこと無し。

誠に夫れ、勝(しよう)を愛すべき所以の者は、勝を愛すべきなり。

葉公の籠を愛するが如くなるべからざるものか。

神丹以東の諸國文字の教網、海に布(し)き山に徧(あま)ねし。

山に徧ねしと雖も雲心なく、海に布くと雖も波心をを枯らす。

愚者は之を嗜む。

譬へば魚目を撮て以て珠と執するが如し。

迷者は之を翫ぶ。

譬へば燕石を藏して以て玉と崇むるが如し。

多くは魔坑に堕して屢ば自身を損ず。哀むべし。

邊鄙の境、邪風は扇ぎ易く、正法は通じ難し。

然りと雖も神丹の一國は、已に佛の正法に歸す。

我が朝、高麗等は佛の正法未だ弘通せず。

何んが爲ぞ、何んが爲ぞ。

高麗は猶ほ正法の名を聞くも、我が朝は未だ曽て聞く事を得ず。

前來入唐の諸師、皆な教網に滞りし故なり。

佛書を傳ふと雖も、佛法を忘るヽが如し。

其の益是れ何ぞ。其の功終に空し。

是れ乃ち學道の故實を知ざる所以なり。

哀む可し、徒らに勞して一生の人身を過することを。

夫れ佛道を學ぶに、初め門に入る時、知識の教を聞き、教の如く修行す。

此の時知る可き事あり。

所謂法、我を轉じ、我、法を轉ずるなり。

我能く法を轉ずる時、我は強く法は弱きなり。

法還つて我を轉ずる時、法は強く我は弱きなり。

佛法從來此の兩節あり、正嫡に非ざれば未だ曽て之を知らず。

衲僧に非ざれば、名すら尚ほ聞くこと罕(まれ)なり。

若し此の故實を知ざれば、學道未だ辨ぜず、正邪、爰爲(なんすれ)ぞ分別せんや。

今の參禪學道の人は、自ら此の故實を傳授す、所以に誤らざるなり。

餘門には無し。

佛道を欣求する人は參禪に非ずんば、眞の道を了知すべからず。

 

(八)禪僧行履の事

 

右、佛祖より以來、直指單傳、西乾の四七、東地の六世、絲毫(しごう)を添へず、一塵を破ること莫し。

衣は曹溪に及び、法は沙界に周(あま)ねし。

時に如來の正法眼、巨唐に盛んなり。

其の法の體(てい)たらくは、摸索することを得ず、求覔(ぐみやく)することを得ず。

見處に知を忘じ、得時に心を超ゆ。

面目を黄梅に失し、臂腕(ひわん)を少室に斷ず。

髄を得、心を飜へして風流を買ひ、拜を設け、歩を退して便宜に堕つ。

然れども、心に於ても身に於ても、住すること無く著することなし。

留らず滞らず。

趙州に僧問ふ、狗子に還つて佛性ありや他た無しやと。

州云く、無。

無字上に於いて、擬量し得てんや。擁滞し得てんや。全く巴鼻(はび)なし。

請ふ、試みに手を撒(さつ)せよ。且つ手を撒して看よ。

身心は如何、行李は如何、生死は如何、佛法は如何、世法は如何、

山河大地人畜家屋、畢竟如何。

看來り、看去つて自然に動靜の二相了然として生ぜず。

此の不生の時、是れ頑然なるにあらず。

人、之を證する無く、之に迷ふこと惟(こ)れ多し。

參禪の人、且らく半途にして始めて得たり。

全途にして辭すること莫れ。祈禱、祈禱。

 

(九)道に向つて修行すべき事

 

右、學道の丈夫は、先づ須らく道に向ふの正と不生とを知るべし。

夫れ釋雄調御、菩提樹下に座して、明星を見ることを得て、忽然として頓に無上乘の道を悟る。

其の悟る所の道は聲聞縁覺等の能く及ぶ所に非ず。

佛能く自ら悟り、佛、佛に傳へて、今に斷絶せず。

其の悟を得る者は、豈に佛にあらざらんや。

所謂道に向ふ者は、佛道の涯際を了ずるなり。

佛道の樣子を明むるなり。

佛道は人人の脚跟下(きゃくこんか)なり。

道に礙(さ)へられて當處に明了し、悟に礙へられて當人圓成す。

是に因て縦ひ十分の會を擧すと雖も、猶ほ一半の悟に落るか。

是れ則ち道に向ふの風流なり。

而今、學道の人は、未だ道の通塞を辨ぜず、強ひて見驗の有らんことを好む。

錯らざるは阿誰(た)ぞ。

父を捨て逃逝(とうぜい)し、寶を棄てて■(足令)跰(れいへい)す。

長者の一子たりと雖も、久しく客作(かくさ)の賤人と作る。

良(まこと)に以(ゆへ)あるなり。

夫れ學道は道に礙(さへ)らるヽことを求む。

道に礙らるヽ者は悟跡を忘ずるなり。

佛道を修行する者は先づ須く佛道を信ずべし。

佛道を信ずる者は、須く自己本(もと)道の中に在りて、迷惑せず、顛倒せず、

増減なく、誤謬なしといふことを信ずべし。

是の如くの信を生じ、是の如くの道を明め、依て之を行ず、乃ち學道の本基なり。

其の風規たる意根を坐斷して、知解の路に向はざらしむ。

是れ乃ち初心を誘引する方便なり。

其の後、身心を脱落し、迷悟を放下す、第二の樣子なり。

大凡、自己佛道に在りと信ずる人、最も得難きなり。

若し正しく道に在りと信ぜば、自然に六道の通塞を了じ、迷悟の職由を知らん。

人試みに意根を坐斷せよ。

十が八九は忽然として見道することを得ん。

 

(十)直下承當の事

 

右、身心を決檡するに、自ら兩般あり。

參師聞法と功夫坐禪となり。

聞法は心識を遊化し、坐禪は行證を左右にす。

是を以て佛道に入るは、尚ほ一を捨てヽ承當すべからず。

夫れ人は皆な身心あり、作(さ)は必ず強弱あり。

勇猛と昧劣となり。

也(また)は動、也は容。

此の身心を以て、直に佛を證す、是れ承當なり。

所謂從來の身心を回轉せず、但だ他の證に髄つて去るを、

直下と名づけ、承當と名づくるなり。

唯だ他に髄ひ去る、所以に舊見に非ず。

唯だ承當し去る、所以に新巣に非ざるなり。

 

學道用心集 終

 

時に延文丁酉、菩薩戒を受けし弟子、寶慶の大檀越野州の太守藤原朝臣知冬、發頑し助縁す。集むる所の鴻福は上、四恩に報じ、下、三有を資せん。

住持永平兼寶慶比丘曇希立版。

開版奉行比丘瑞雄維那 書字比丘一書記。

 



「學道用心集」は様々な本が出版されていますが、頁上は「冠導傍解・永平初祖學道用心集」は町元吞空編輯で明治三十年九月四日、鴻盟社が発行したもの。 

 

下は「永平祖師・學道用心集聞解」で明和三年丙戌仲秋二十八日の面山の序文があるが、出版に東京・森江佐七とあるので、明治に再版されたものか。 

 

學道用心集聞解・面山
學道用心集聞解・面山
永平初祖學道用心集聞解-1
永平初祖學道用心集聞解-1
永平初祖學道用心集聞解-2
永平初祖學道用心集聞解-2