弟子丸泰仙

Taisen Deshimaru

「無一物からの挑戦」弟子丸泰仙著
「無一物からの挑戦」弟子丸泰仙著

弟子丸泰仙

Taisen Deshimaru

 

弟子丸泰仙(本人)の著書から判断すると Wikipediaの弟子丸泰仙 には間違っている箇所がある。

 

 

弟子丸泰仙 略歴

 

1914大正3年11月29日 佐賀県佐賀市諸富町、弟子丸千太郎の長男として生まれる。「弟子丸泰雄(やすお)」、姉二人、妹二人の中の一人息子。


骨太の「ううばんぎゃあ」の祖父、「論語」「日本外史」など漢学の素養のある父、浄土真宗の信仰に篤い母に育てられる。

 

「ううばんぎゃあ」とは佐賀弁で大番の意。おおまかで、線が太く、荒削りの意味。

 

父親、弟子丸千太郎は筑後川の下流、有明海に近い諸富港で、機帆船の船問屋を経営して、村の農業会長、漁業会長を務めていた。 

 
新北小学校、佐賀中学校を卒業し、父の家業を手伝う。

 

父親は「軍人」となって出世すること望んでいた。
しかし、士官学校の試験を受けたが、体格検査で近視のため不合格となった。
三池炭鉱の石炭を機帆船で諸富港に運び、それを川筋一帯に点在する瓦工場に配布している父親の家業を、中学卒業後はしかたなく手伝っていたが、父は息子の泰雄が家業を継ぐ気持ちがないことを知り、上の姉に婿養子をとり、彼に家業を手伝わせることになった。 

 

(サラリーマンとして人生を送るよう父が望んだ訳ではない。) 

 

佐賀県出身で上海の同文書院院長・真島次郞が急逝し、その未亡人と家族が佐賀市に移り住んでいた。
その長男・茂樹と中学が同級であった為、真島家の奥座敷にはいりこんで勉強していた。
沢木興道老師は佐賀に講演に来るたびに、真島家に宿泊し、真島夫人は老師を歓待していたので、その奥座敷で一緒に寝泊まりすることになる。
沢木興道老師、五十歳前後、、弟子丸泰雄、十八歳の時である。

 

坊主頭にコケコッコー

(沢木興道)和尚は(真島)夫人が用意してきた洗面器を前に、縁側でひとり頭をつるつるに剃っていた。その時、縁先で餌を拾っていた鷄がばたばたと縁側にあがってきた。その鷄は何を思ったか、急に剃りたての頭の上に飛びのるやいなや、その頭の上で、「コケコッコー・・・」と一声高く声をあげたのである。それは全く一瞬の出来事であった。私はあんまりおかしくて吹き出してしまったが、この和尚さんは身動き一つせず、けろりとした格好である。私ははらはらして立ちあがり、鷄を追い払ったら、和尚は「なあに、あわてることはいらん。佐賀じゃあ鷄までううんばんぎゃあかばい」といって、剃りたての頭上の残された鷄の爪あとの泥を指でかきながら、澄ました顔している。この顔を見たとき、私はおかしいというより全く驚いてしまった。・・・・(弟子丸泰仙著「無一物からの挑戦」84~85頁より)

 

この頃、アメリカに渡って勉強しようと野望をいだき、東京行きを両親に相談した。
意外に、両親は簡単に東京行きを許してくれる。


昭和8年4月、横浜専門学校(現神奈川大学)に給費生として入学し、経済学、英語を学び、東大仏教青年会学寮「同信学寮」に居候し淨土真宗学を学ぶ。


又、朝比奈宗源に出会い臨済宗円覚寺「居士林」で坐禅する。

或る日、連日警策で打たれ、終いには巡香に脳天を叩かれことに反発した弟子丸泰雄は、その巡香の警策を取り上げ、彼を容赦なく叩きつけ、荷物をまとめ、円覚寺を去る。 


横浜専門学校は英語の専門学校と云われるほど充実した教授の中、英語を真剣に学ぶ。


森永製菓の外国部の海外派遣の社員募集を知り、森永製菓に入社し、外国部鶴見工場駐在員として勤務する。

 

佐賀の真島夫人から「沢木老師が、いまあなたが住んでおられる鶴見付近の大本山總持寺で、えらく出世されて、『後堂』という役になっておられるから、一度訪ねてみられたらいかがですか」との一通の手紙を受け取る。

 

(最初、駒澤大学で出会ったのではない。18歳の時、佐賀で偶然会ったのが最初であるが、その後は大本山總持寺後堂の沢木老師に会いに行った。)

  

大本山總持寺へ行き、總持寺後堂となった沢木興道師と再会する。

 

「和尚とはそれまで佐賀でなんども会ってはいたが、今思えばこのときが、あらためて師弟としての真の『面授』のときであったような気がする。」~無一物からの挑戦より~

 

そこで坐禅の坐相を教わり、師のノート「驢耳弾吟ろじだんぎん」に感激する。

 

「驢耳弾吟ろじだんぎん」(沢木興道師のノート)には
一、汝自身の精神的要求にかえれ、人間最高の根本的要求にかえれ。
坐禅は新たなる人生である。
、坐禅による新たなる人生は、いかなる環境にも随順しつつ、それに没落せず。
、我々は歴史と社会とに支配せられてはならぬ。
しかしまたそれを無視してはならぬ。
、坐禅は人間の孤独に徹することである。
人間は孤独である時、もっとも自己に親しみ、真の自己に徹することができる。
證道歌に曰く「常に独り行き、常に独り歩す」。
人生は一人旅である。
大丈夫たる者は何ものもたよりにしない。
真の自己になりきり、大道闊歩(だいどうかっぽ)、直下(じきげ)に第二人なし。
乾坤ただ一人の意氣でなければならない。
等々が書かれていた。

 

  (参考)沢木興道著「禅談」
  (参考)沢木興道著「禅談」

《澤木(沢木)興道については、この頁の最後に記載してあるので、参照のこと!》

 

沢木興道師の大本山總持寺での週一回の日曜参禅会に参じ、駒沢大学の講義、吉祥寺の参禅会、豪徳寺の「大智禅師法語」提唱などに随侍する。

 

沢木老師は「出家からシッケイするのが本当の出家だと」總持寺という曹洞宗門の大本山に座しながら、堂々と既成教団を非難し、既成宗教家を否定する。


その沢木老師に出家を願い出る、しかし「・・・うん、君の気持ちはよく分かった。しかしだ、職業坊主になってもつまらんぞっ。いまのままでいいんだ。会社づとめのままでいいのだから、坐禅だけはいまの熱意をもって続けろ。そしたら衲が最後に立派な坊さんにしたててたるから。」と云われ、「そうだ、会社員で一生を押し通しても同じことだ」と思い留まる。
そのかわり沢木老師の行く所はどこへでもついて行って坐禅するようになる。


總持寺僧堂にて雲水と共に坐禅、駒沢大学参禅会、さらに吉祥寺、豪徳寺、賢崇寺、泉岳寺、正覚寺、海晏寺などの参禅会に進んで参加する。

 

昭和15年10月 沢木興道師は栃木県大中寺に「天暁禅苑」を開設し、酒井得元、内山興正、川瀬玄光等が師を補佐していた。そこの接心に参加し、参禅する。

 

彫刻家・金保正智(かなやすまさとも)は沢木興道師の坐禅像を木彫して文展に入選したが、次の年、若い人の坐禅の裸像を彫りたいと沢木興道師の相談した。
沢木興道師は坐相の良い弟子丸泰雄(泰仙)を推選し、彼をモデルにした「蟠龍ばんりゅう」は昭和16年文展に入選した。
その後、この「蟠龍」は駒沢大学の講堂に安置されることになった。

 

(尚、現在は「駒澤大学禅文化歴史博物館」に安置されている。) 

 

23歳の春、満州に出征した恩師成島大佐が戦死し、その長女「久子」と結婚する。
仲人の中支方面司令官今村大将より暁烏敏著の「歎異抄講話」を贈られる。

 

森永製菓鶴見工場から本社外国部に転任し、東京新大久保に居を移す。 

 

二・二六事件の嫌疑で投獄されて出獄した真崎甚三郎と再会する。彼は浄土真宗に帰依し、「愚真」と号し、仏教運動に参加し、反戦運動に発展する。

 

森永製菓を辞し、三菱鉱業株式会社に入社する。

 

この頃、長男が誕生する。 父親・千太郎にちなみ「千一郎」と名づける。

 

三菱鉱業からインドネシアに派遣され、スマトラで鉱山開発の余暇に坐禅。
ムントク地区の華僑が請け負っていた各鉱山の錫鉱石の管理、受け渡しの担当責任者となる。


華僑の総元締め「陳基光」と親しくなる。


華僑を死刑から救う
日本軍政部警務部は陳基光を初め、主なる華僑七、八十人、インドネシアの反戦者二十人、さらに弟子丸泰雄(泰仙)を逮捕し死刑にされる寸前、弟子丸泰雄(泰仙)は今村将軍に不法逮捕の事実を手紙で訴え、そのことが功を奏し、二、三週間後、全員釈放される。

 

ビリトン島の三菱錫開発は弟子丸泰雄(泰仙)が助けた華僑、現地のインドネシア人の協力により成功する。


弟子丸泰雄(泰仙)はマラリアを再発し入院する。


(太平洋戦争終戦)


インドネシア全土に独立運動が起こる。
日本人三百人はパンカルピナン市郊外に収容される。
民族運動指導者スカルノの部下マヌサマは日本軍、日本軍政の即時撤退を要求し、日本人収容所を攻撃しようと計画する。


陳基光と弟子丸泰雄(泰仙)はマヌサマを説得し、事態を収拾させる。

 

1946昭和21年2月 帰国を決意し、同年5月7日、和歌山県田辺港に着き祖国の土を踏み家族と再会する。


それから間もなく、沢木興道を再び訪ね、坐禅を続ける。

 

1947昭和22年 西本願寺の大谷光瑞と別府の鉄輪を拠点として「世界仏教平和運動」を始める。

 

昭和27,28年 実業界にあって、松永安左衛門、原安三郎、藤山愛一郎等と「アジア協会」を設立し運営する。この協会は外務省の外郭団体となり、その常務理事となる。その後、辞任するが、この協会は発展的解消して「海外技術協力事業団」となる。

『日本人に喝-禅的人生のすすめ』弟子丸泰仙著・徳間書店発行(84頁~86頁より) 

(設立したのはアジア協会であって、海外技術協力事業団ではない。)

  

日本の戦後の東南アジアとの賠償問題で吉田茂が信頼していた日本化薬の原安三郎と松永安左衛門が主宰した「アジア経済調査会」との間を奔走する。

 

1965昭和40年 沢木興道より京都安泰寺で出家得度を受け、最後の弟子となる。

この時「黙堂泰仙」を授与され弟子丸泰雄は弟子丸泰仙となる。51歳。

 

1965昭和40年12月21日 京都安泰寺で沢木興道師は八十六歳で遷化する。

 


(1966年 フランス五月革命)

 

1966年8月
来日した80人程のヨーロッパの人々に長野県佐久の貞祥寺で坐禅の指導をする。

 

「私はフランスに渡航する一年ほど前、桜沢如一というヨーロッパで自然食を普及しながら、東洋哲学を説いていた人と知り合った。私がフランスに来るようになった直接の動機は、この人との因縁からといってもよい。」

(弟子丸泰仙著「禅と文明」134頁より)

 

(沢木興道老師は生前、海外で禅を広めたいとの意志はあったが、弟子丸泰仙へのヨーロッパ、フランス布教の遺命があったとは断定できない。)

 

横浜三渓園の原良三郎氏、日本化薬の原安三郎氏、さらに松永安左衛門氏等よりヨーロッパ行きの旅費を出してもらう。

 

1967年7月7日
横浜港よりナホトカ、ハバロスク、イルクーツクを経てモスクワに着く。
その後、フランス首都パリに到着し、後援者よりルラマンチンの裏町の食料品店の空き倉庫を道場に提供される。
ソルボンヌ大学を出た、英語が上手で、日本語も少し話せる「モニック」嬢が助手として弟子丸泰仙を助ける。


着いた翌晩の「知識人クラブ」で「禅とは何か」というテーマで講演を頼まれ、いきなり雲水姿でスピーチテーブルの上で坐禅を組み「禅とは坐禅だ」と四、五分何も話さず静かに坐禅をした後、フランス語通訳を交え英語と日本語で講演した。このことはパリジャンたちをビックリさせたばかりでなく大きな関心をよせることになる。

 

 坐禅は

 " by the head push the heaven "

 頭で天を押す

 " by the knees push the ground,push the earth "

 両膝で大地を押す

「ドモナーム・アトナーム」(以心伝心)

「ノンプロフィット」(無所得)

 以上の四項目が講演の趣旨。

 

 坐禅・釈尊苦行像
 坐禅・釈尊苦行像

 

その数日後、ベルギーのブリュッセルの柔道道場で「武道と禅」のテーマで講演する。

 

この頃、ソルボンヌ大学に留学中の東本願寺の大谷暢順(大谷光暢の子息・後、大谷派から離脱)はフランス語が流暢であったので通訳として時々、弟子丸泰仙の講演の通訳をして彼を援助した。

 

1967年12月21日
沢木興道老師三回忌の日を中心に十日間、パリ郊外で臘八接心を修し、百名近くの男女が参加する。
このとき参加していたフック家のローズマリー夫人はその後、師を献身的に補佐する。

 

1968年 オペラ座横のビルの七階に引っ越す。 

 

1968年5月 英国ロンドンに行き、合気道、柔道の道場を中心に坐禅を広める。

 

同年、ドイツへの伝道。

 

1968年 ローマとパリで開催された世界宗教会議に招かれる。

 

1968年9月21日 山田霊林師(当時永平寺副貫首)一行と曹洞宗ヨーロッパ使節団、弟子丸泰仙が活躍しているパリを訪問。

 

1969年1月2日 モンパルナスの駅前に新道場を開設し、ここを本部とする「ヨーロッパ禅仏教協会」の組織作りをする。

 

1969年1月30日 師のヨーロッパ伝道に力を尽くしてきたフック家ローズマリー夫人が交通事故にて急死する。

「プロテスタント一家の排他性より起きた悲惨事」とパリの新聞に報道された。

 



 

1969 昭和44年
「ヨーロッパ禅仏教協会」創立

本部-パリ(59 Avenue du Maine -Paris)
会長兼理事長 弟子丸泰仙
副会長兼理事
ルネ・ジョリ(パリ大乗禅寺院代)
エティエンヌ・ジャレンクー博士(パリ総合病院長)
レイモンド・ロンベル氏(元印度ベーダンタ・ヨガ会長)
理事
ズルカイム教授(ドイツ東洋精神文化研究所長・ハイデルベルヒ大学名誉教授)
事務局長
ローズ・マリー夫人(1月30日事故死)
事務局長補佐・4名
会計部長
クロード・パンション氏(パリ大学心理学教授)
事務員・8名
顧問弁護士
ジェヌビューム・ゴーブ法学博士
各支部
パリ(2)、ブワーラウ、ルクセンブルグ、スイス(2)ローマ(3)、フローレンス、トリノ、ミラノ、ベニス、ロンドン(4)トズモール、ヂュッセルドルフ、ブレーン、ベルリン、アムステルダム、マドリード、ストックホルムなど38支部。
会員。当時一万三千名。

 



 

1969年  Vrai Zen」(仏文)Paris 出版

-苔むした泉より湧き出る新鮮な水-内心の革命-
「禅はポン・ヌーフのようにいつの時代でも新鮮である」

 

1969年2月 イタリアへの伝道、スイスへの伝道。

 

同年 パリ在住の岸惠子(女優)の父の死去に伴い、戒名をつけ葬儀を行う。 

 

1969年5月 オックスフォード大学、ケンブリッジ大学で講演し、二日間の座禅指導をする。

 

1969年5月 フランス中部のベルホンテン僧院で十日間宿泊し、修道僧に坐禅を指導する。


この坐禅指導はフランス国営テレビ局がローマ法王庁の許可を得て撮影され、同年11月2日「カトリックと坐禅の交流」が四時間、全国放映された。
その後も繰り返し全欧で放映され、大きな反響をよぶ。

 

1969年11月 東洋友の会主催、日本大使館後援のよるパリの東洋美術館での講演会は超満員となる。この時の講演内容が又、大きな反響をよぶ。

 

この頃には、セントオーガスチンのオペラ座の近くのビルに巴里禅道場があり、パリ郊外に大乗禅寺(敷地五万坪)、中仏山中に仏光禅林(敷地二万坪)、地中海カンヌ郊外に南仏禅寺(インド式石造りの別荘)などを信者から寄進されて坐禅道場として使用していた。

 

1970年 「証道歌講義」(仏文)Paris 出版

 

1970年 パリに仏国禅寺を創立する。

 巴里山佛国禅寺・弟子丸泰仙
 巴里山佛国禅寺・弟子丸泰仙

 

1970年 ヨーロッパ禅協会(後の国際禅協会)

            AZI(Association Zen Internationale)

 

1970年3月 三年ぶりに日本に帰国する。(五ヶ月間滞在)

 

長野県貞祥寺、名古屋仏地院、永平寺東京別院、群馬県迦葉山龍華院、静岡県可睡斎・大洞院、丹波長和寺、広島市、福岡市、高田市、奈良京都などを訪問する。

 

1970年5月
弟子丸泰仙、大本山永平寺に上山する。(永平寺に安居したのではない。) 

 

この時、弟子丸泰仙と共に来日した20人程のヨーロッパの人々と長野県佐久の貞祥寺で日仏合同坐禅合宿(一週間)を行う。

 

1970年8月 パリに戻る。

 

1970年12月 スイス、北イタリアへの伝道。

 

1971年 「地中海クラブ」のブリッツ社長の案内でエジプトを訪問。

 


 

1971昭和46年6月15日「禅僧ひとりヨーロッパを行く」弟子丸泰仙著 春秋社・発行(アンドレ・マルロー序文)

 

「はしがき」
(前述略)
私は二十歳のころ、(沢木興道)老師にはじめて会って、人間最高の目的が奈辺にあるかを知ったので、そのとき坊さんにしてくださいと頼んだ。(最初の出会いは18歳の時)
しかし老師は「職業坊主になるな。今のままでいい。ほんとうの禅は、あらゆる生活体験のなかにある。今のままで坐禅をつづけろ」といわれた。
それから三十有余年、わたしは波瀾万丈の生活を経てきたが、坐禅だけは一貫してゆるめなかった。
そして、(沢木興道)老師の死の直前に、最後の弟子として得度をうけたのである。
人間はその生涯において、一つのことに清魂を傾け邁進していれば、その成果は期せずして、いつかどこかにあらわれてくる。
今、私の伝道の反響は、ヨーロッパの全土にひろがってるが、それは単なる僥倖や一時的ブームではない。
そこには遠い宿縁というか、また多くの人知れぬ苦心と、現代ヨーロッパの文明史的な根強い理由が存在するのである。
(後述略)

 

「禅僧ひとりヨーロッパを行く」弟子丸泰仙著
「禅僧ひとりヨーロッパを行く」弟子丸泰仙著

 

1971年10月2日 パリの日本大使館で天皇、皇后陛下に特別拝謁し、「ヨーロッパでも仏教を信ずる人がいますか」との問いに、「日本より熱心です」と答える。

 

1972年1月 フランス南西部ピレネー山脈近くのツルーズ市、アジャン市、ターブル市、パオ市方面に伝道に行く。
すでに弟子たちが立派な道場を開設し、坐禅をつづけ待っていた。

 

1972年秋 日本へ一時帰国する。

東大仏教青年会の主事・由木義文より依頼され、講演する。

演題「私の宗教体験 ―念仏と禅との接点―」

(弟子丸泰仙著「無一物からの挑戦」101頁より)

 

1972年11月 ストラスブール方面への伝道(一週間)。

弟子のクロード(大空)が運転し、エチエンヌ(仙空)が通訳、ムリエール孃(空光尼)が世話役として同行する。 

 

1972年12月 サハラ砂漠を訪れる。

 

1972.12~1973.1 坐禅、講演、弟子たちの教育、ヨーロッパ禅協会の事務、原稿書きなどの多忙な日々を離れ、オルレアン郊外の古城(シャトー)でわずかな期間、快適な休暇を過ごす。

 

1973昭和48年1月末より2月初めにかけてカンヌ、ニース、モナコ、マルセイユなどの地中海方面への伝道。

この方面へは毎年(6年間)二、三回必ず伝道に赴く。 

 

1973年2月 北アフリカのモロッコ、アルジェリアへ伝道。

 


 

1973 昭和48年4月10日「ヨーロッパ狂雲記」弟子丸泰仙著 読売新聞社・発行

 

「ヨーロッパ狂雲記」
「はしがき」

私は、さきに「禅僧ひとりヨーロッパを行く」と題し、私のヨーロッパにおける禅の伝道記をいろいろ多角的に書いてみた。
そうしたらパリの私のところへ、日本人の若い人たちから直接たくさんな便りが舞いこんだ。
そのなかでも、とくに「・・・・いままでのように堅苦しい宗教書とちがって、私たちにも読みやすく、親しみやすい。とくに前半はたいへん面白く、一気に読めた。だが後半は少々むずかしかった。もし次に書かれる本があるならば、この本の前半のように少し宗教面から抜け出て、伝道旅行中の面白いことや、異国での禅僧としての失敗談などを赤裸々に書いてほしい。そうしたら、現代日本の若い人や、仏教とか禅に関心のない者にもきっと役立つだろう」というようなことを書いてきたものが多かった。
そこで、こうした日本の若い人たちの要望に応じて書いたのが、この第二作である。
近ごろの風潮として、むやみやたらとわざわざ難解な単語を使い、だれにもわからないような哲学や宗教書を書いて自己満足をしているような、知識偏重といった傾向があるらしい。
また、いつもしかめっ面した哲学者や宗教家のイメージでは、とっつきにくいことも事実であろう。
いかに崇高な哲学も宗教も、現実の社会に受けいれられなければ、その輝きは埋もれ、宝のもちぐされとなってしまう。
宗教にしろ、哲学にしろ、大衆に伝えるがゆえに尊い。
現代の文明は目まぐるしく、しかもある意味では、まさに人類はじまって以来の危機に瀕しているといってもいいすぎではなかろう。
これを救うためには、現代の哲学も宗教も、その本質は別として、その方法において、従来より急速な転換が必要とされている。
私は、そうした意味において、この本を”狂雲記”としたのである。
この本は主として。パリにおける私の女性の弟子たちを中心課題として、気楽に読めるように書いてみた。・・・・・(後述略)
  一九七三年二月 
    パリにて 泰仙野僧 九拜

 

「ヨーロッパ狂雲記」弟子丸泰仙著
「ヨーロッパ狂雲記」弟子丸泰仙著

 

1973昭和48年10月25日「無一物からの挑戦弟子丸泰仙著 (株)文京書房・発行

 

「無一物からの挑戦弟子丸泰仙著

「あとがき」
(前述略)
私は幼いころから、浄土真宗の信心深い母の影響で、豊かな宗教情操を培われた。
だが一方では日本の伝統仏教そのものに対し、ある種の懷疑をもっていた。
また母は幼年時代から私を坊さんにすることを望んでいた。
世の一般の母と違って、出家になることが人生の最高のしあわせであり、それより人としての成功はないと心の底から思いこんでいた。
それとは反対に父は、世間並みの出世を私に望んだ。
当時の故郷佐賀では軍人として出世することが最高の成功であるかのように思われていた。
それができねば、いっそ家業をついで父子二代で資産をかため、郷土で物質的成功に甘んずることを父は内心望んでいた。
そこでこうした両親の対蹠的な、異なったわが子への期待と葛藤の谷間に育てられ、私の人生そのものに対し人一倍煩悶したのである。(中略)
母の昔にかわらぬ素朴で純粋な念仏への信仰への影響と、それに少年時代にはからずも邂逅した、私の生涯の師とも仰ぐ沢木興道老師の途方もない禅の精神と、その人格に魅せられ、私の願望はより深く精神的なものへと燃えさかっていた。(中略)
こうした私の人生観に最も大きな影響を与えた二つの宗教教育で、母の信仰は淨土宗の念仏であり、沢木老師は曹洞宗の只管打坐であったので、私は内心に何か割り切れない躊躇をいだいていた。
ところが老師と親しく接しているうちに、その二つの異なった宗旨のあいだに横たわっていた私の内心の溝はしだいに消失して、しかもその原点において全く一致しているような思いがしてきた。
そこでこの日本仏教の代表ともいうべき念仏と禅の接点について私は、従来ありふれた仏教観からではなく、角度をかえて(この本を)書いた。
すなわち母の素朴で純粋な念仏の一念と、老師が念仏から禅に転じられた動機と、その後の老師の念仏と禅に対する通仏教観を、私なりの宗教体験を通してありのままに描写しようとこころみたのである。
(後述略)

 

「無一物からの挑戦」弟子丸泰仙著
「無一物からの挑戦」弟子丸泰仙著

 

1973「正法眼藏解説」(仏文)Paris 出版

 

1973 L'essence du Zen」(仏文)Paris 出版

 

1974年 「ZA-ZEN」(仏・独文)Paris 出版


1974年 「参同契・宝鏡三昧講義」「Textes Sacres du Zen」(仏文)Paris 出版


1974年 「大脳意識と禅」ポール・シュシャール博士(共著)(仏文)Paris 出版 

 

1974年5 月 ヨーロッパ訪日旅行団百余名と共に帰国する。

 

この時訪れた永平寺のいかめしい固い印象とは別に、宇治の興聖寺の植木勝道師の「道元禅師は女性に道場を開放されて、女性を大いに歓迎された」との言葉に同行していたヨーロッパ人達、特に女性達は救われた思いがした。

(弟子丸泰仙著「パリの禅僧」記述) 

 

1974 昭和49年 山田霊林師(永平寺副貫首)より嗣法する。

 

(参考)
曹洞宗では一般的に出家得度し、立身(立職)、伝法(嗣法)、転衣、両本山瑞世を了じ、一定期間の僧堂安居歴を有したものが曹洞宗教師となって住職となれる資格を得る。
住職となって初めて弟子を得度させることが出来る。

 

1975年 「禅と武道」(仏・英・独・伊文)Paris 出版


1975年 「大智禅師法語解説」(仏・英文)Paris 出版

 

1975年 「信心銘講義」(仏文)Paris 出版

 


 

1975 昭和50年9月1日 「パリの禅僧-ヨーロッパを席巻した行動する禅-弟子丸泰仙著 (株)實業之日本社・発行

 

「パリの禅僧-ヨーロッパを席巻した行動する禅-」
「あとがき」

この本のサブタイトルを「ヨーロッパを席巻した行動する禅」とした。
なぜ行動する禅としたか。
それはいかにも勇ましい禅だと早合点してはいけない。
周知のように、フランスのデカルトは「我思う、故に我あり」といった。
そのあとで、メーン・ド・ビランは、このデカルトの言葉を「我行動す、故に我あり」と訂正した。
人間はややもすると頭で考えることに重点をおき、からだで行動することをいやしめる。特に近代では、デカルトの科学的思考法が影響して、知性のみが偏重され、人間の行為、行動に重点をおく訓練や教育が軽視されてきた。
(中略)
ところで、東洋ではこうしたことは、すでに二千余年の昔から、仏教、特に禅の祖師たちによって主張されてきている。
頭だけの理解を誇り、頭だけの悟りを豊富にして、いっぱしの学識、見識だけで威張ってみても、それは現実の生活にはいざとなった場合、ほとんど役立たないと強調されてきた。「(普勧坐禅儀)」
ところが最近の日本の仏教学者自体がいまだにヨーロッパのアカデミックの後を追って、依然として頭だけの思考でとくとくとしているのがいる。
(中略)
ヨーロッパでなぜ禅が広がっているのか。
それは、ヨーロッパの人々が今日の物質科学文明の行きづまりの原因が、従来のデカルト式思考法の知育偏重にあることに気づいてきたからである。
つまり、そうした頭だけによる觀念的世界から脱し、坐禅を基本とした行為、行動の実践によって、自然に体得される人間の意識の分別を超え、論理を超越した素朴な事実に着眼し、それよりほかにないと信ずるようになったからである。
(後略)
一九七五年七月 パリ禅道場にて 弟子丸泰仙

 

  「パリの禅僧」弟子丸泰仙著
「パリの禅僧」弟子丸泰仙著

 

1976年 大智禅師偈頌解説(仏・英文)Paris 出版 

 

1976年 「SHIN JIN MEI Textes sacres du Zen」(仏文)Paris 出版


SHIN JIN MEI Textes sacres du Zen
SHIN JIN MEI Textes sacres du Zen
如実知自心 沙門泰仙(SHIN JIN MEI 表紙裏)・信心銘沙門泰仙提唱
如実知自心 沙門泰仙(SHIN JIN MEI 表紙裏)・信心銘沙門泰仙提唱

 

1976年 曹洞宗ヨーロッパ開教総監となる(未確認)

 

(参考)
山田霊林禅師が永平寺貫首となっていたのは1975昭和50年2月28日より1976昭和51年4月29日までの間。
曹洞宗管長は1976昭和51年1月22日より1976昭和51年4月29日までの間で、山田霊林禅師が曹洞宗管長名で弟子丸泰仙に曹洞宗ヨーロッパ開教総監を任命したとすればこの間のこと。

 


 

1976昭和51年6月30日「禅と文明」弟子丸泰仙著 誠信書房・発行

 

「禅と文明」
「序文」(推薦の言葉)
(前述略)
弟子丸師は本書において、道元禅の悟りの実体を明らかにせんがため、西洋哲学及び現代の心理学並びにヨーロッパの主なる諸学などと比較して、禅の実体と内容を、本書で明らかにしようとしておられる。
そのために師には、欧州における目ぼしい学者と親しく会談し、禅の実体に関する諸般の問答を当代一流の学者たちと直接に行ない、道元禅の立場を綿密に説明せられている。
そして「禅」はスイスの精神分析学者、ユンクの深層心理学などにおいて説くような客観的、科学的実証ではなく、またアメリカに流行するアラン・ワットの趣味的禅などでもなく、あくまでも「坐禅」を中心にした主体的実証でなければならぬといわれている。
このことは道元禅の本領たる「只管打坐」の真義を単伝的に説かれたものといえる。
しかも見性の問題にも触れて、今の世の宗師家達の誤まれる考え方を訂し、見性の主体的実性というのは、自分の自己意識で実証するのではなくて、あくまでも師匠によって点検・実証してもらうものでなければならないと、現代禅者の陥っている誤解と増上慢を打砕しておられるのである。
さらに師は、現代仏教学者の「坐禅」をぬきにした禅に関する見解の誤謬を論駁し、それを知識偏重から発した皮相的、浅薄な誤りであると指摘されている。
ともかく道元禅の神髄を徹底開闡するために、師は永年修行の坐禅によって培われた鋭い觀察力、洞察力と、巨視的視野で、しかも東西の広範な知識を駆使し、あらゆる角度から提撕されているのである。
思うに、嵩山(中国河南省登封県)少林寺において面壁打坐していた風光(達磨大師)を想起せしめるものがある。
嚮に道元は、正法の仏法を東漸せしめたのは達磨だといったが、今やそれが弟子丸師によって、遥かに西漸せしめられ、真実の仏法が、遠き異境のヨーロッパからアフリカの地にまで流布せられんとしているのである。
まことに感激に堪えない。
重ねていうが、弟子丸師には、三国伝承の禅思想の変遷と、道元禅の精随を究めつくされ、かくて真箇の祖師禅を今遙かなる刹土に樹立せんとしておられるのである。
そこで予は、師こそは、当代禅界斯道における第一人者であると確信し、茲に尊敬の余り、この一文を草して、普く世の有識者に本書を推薦するものである。


 昭和五十一年清和月吉日
  東北福祉大学長 大久保道舟 

 

「推薦の言葉」(省略)

 昭和五十一年五月十一日

  東京大学名誉教授 中村 元

 

「禅と文明」弟子丸泰仙著
「禅と文明」弟子丸泰仙著

 

1977年 「La PRATIQUE Du ZEN」(仏文)Paris 出版

 


 

1977昭和52年11月25日「澤木興道筆録集・正法眼藏現成公案解釈」弟子丸泰仙著 誠信書房・発行

 

「澤木興道筆録集・正法眼藏現成公案解釈」
「あとがき」

今から十有余年前、それは昭和三十九年(昭和四十年の間違い)十二月二十一日、沢木老師御遷化の直後であった。
老師の遺法をなんとかして永く護持してゆきたいとの念願で、当時老師の有縁の人びとに配布されていた「返照」という月刊誌に、私は老師が遺された数十冊の筆録やノートの中から「正法眼藏現成公案」と表題されたものを取出し、それを改めて「澤木興道遺稿・正法眼藏現成公案」と題し、一年有半連載したことがあった。
だがその連載は、私が昭和四十二年七月七日からヨーロッパ開教に出かけることになったので、未完のままに終ってしまったのである。
本書は、その前半の連載ものを大巾に改変し、さらに未完分を補稿し、一巻にまとめたものである。
従って本書は私の長年月にわたる眼藏参究の成果の一端をはじめて世に発表したものといってもよい。
勿論、浅学非才の私ごときが「正法眼藏」の中でも最も難解といわれる『現成公案』の巻の解説を世に上梓しようなどとは夢にも思ってはいなかったし、また先師の眼藏への参究の深遠且つ格調高い御遺稿に対し、解説など加えては、かえってそれを浅薄且つ卑近なものに価値低下させるのではないかともおそれていたのであった。
ところが沢木門下で最初に嗣法を受けた一番弟子で、私の最も信頼する兄弟子の成田秀雄老師から、「あんた、沢木老師の貴重な遺稿を一人でしまっていては勿体ないよ、なんとか一般の人びとにもわかるような解説を加えて出版してみたら」とすすめられたのである。(後述略)

 

  「正法眼藏現成公案解釈」弟子丸泰仙著
  「正法眼藏現成公案解釈」弟子丸泰仙著

 

1977昭和52年10月2日 フランス・アバロン大乗禅寺で弟子丸泰仙開教十周年記念法要を挙げる。

 

1978昭和53年7月下旬 スイスとイタリアとの国境に近いヴァル・ディゼールで「ヨーロッパ禅協会」主催の夏期接心を開催する。 

 

1979年秋 パリより南百五十キロ離れたブロア市外のロアール河畔に二十余万坪の敷地のあるルイ王朝時代のシャトー(古城)を取得する。

このシャトー(古城)は「ゼンドロニエーレ城 La Gendronnière」という城だったので、弟子丸泰仙師はこれを日本語で「禅道尼苑」と名付けた。

 

そこに禅センター(禅道尼苑 La Gendronnière)を開設する。

 

1979年 国際布教総監に任命される。

 


 

1980昭和55年1月20日「澤木興道筆録集・正法眼藏摩訶般若波羅蜜解釈」弟子丸泰仙著 誠信書房・発行

 

「澤木興道筆録集・正法眼藏摩訶般若波羅蜜解釈」
「序」

恩師、沢木興道老師の筆録を軸とした眼藏研究の一端として、私は先に成田秀雄老師と、誠信書房の懇望により「現成公案解釈」を刊行したが、つづいて「摩訶般若波羅蜜」の巻の解釈をここに刊行することにした。
その理由については、本書の題釈解説で詳しく述べているが、本巻を第二に選んだ直接の動機はほかにもあった。
それは私のヨーロッパ伝道の当初より「般若心経」に関心をもつ者が激増したからでもある。
私の伝道は「只管打坐」一本ではじめたが、その後、経典や祖録の伝播にも力を注いだのである。
従って坐禅が終わったあとでは、必ず般若心経を私は独誦した。
それがいつのまにか皆んなで同誦するようになり、般若心経は、いま坐禅と共にヨーロッパ一円に燎原の火のごとくひろがっている。
坐禅をする人は皆、この般若心経を空で暗誦しているので、日本からきた人たちが驚嘆するほどである。
そこでこうしたことから、私はいきおい、フランス語や英語で般若心経や祖録・眼藏等の真義を伝えるための解説書を、順次出版することにした。
(後略)
一九七九年六月 パリ仏国禅寺にて 沙門泰仙

 

「正法眼藏摩訶般若波羅蜜解釈」弟子丸泰仙著
「正法眼藏摩訶般若波羅蜜解釈」弟子丸泰仙著

 

1980年春 弟子丸泰仙師、永平二祖国師七百回大遠忌の焼香師として大本山永平寺に上山する。 

 

1980年秋 弟子丸泰仙一行がアメリカに渡る。

 

1980年12月 スイス国営テレビが「ヨーロッパ文明の危機と取り組む東洋の宗教」を一週間続けて放映する。その中で弟子丸泰仙を取り上げ「彼はヨーロッパに十三年間住んで、今、約十万人の弟子をもっていて、坐禅中に弟子たちに『自分自身が炬火であれ』と獅子吼するのである」と伝えた。

 


 

1981昭和56年10月1日 「セルフ・コントロールと禅」池見酉次郞、弟子丸泰仙共著が日本放送出版協会より発行される。

 

「セルフ・コントロールと禅」
「はしがき」
アインシュタインは「宗教なき科学は盲目である、科学なき宗教は阿片である」といった意味のことをいっている。
今日では、宗教なき科学の盲目化と、科学なき宗教の阿片化が、いよいよあらわになってきている。
私の三十年余にわたる心身一如の医学への精進の底流をなしていたものは、科学と「真に宗教的なもの」との接点の探求であった。
これについての長年の思索をまとめて、昭和五十三年に『セルフ・コントロールの医学』(NHKブックス)として出版した。
その内容は「真に宗教的なものは、自分を生かしている自然の秩序をふくめて、セルフへの全人的な気づきと、それをふまえた真のセルフ・コントロールを教えるものである」として、物心二分の現代文明の弊を矯める物心一如の科学の中核となる心身一如の医学にもとづいて、万人に可能なセルフ・コントロール法に至る道を追求したものであった。
これに対する読者からの反響は、思いの外大きかったが、科学の上に合掌する道を求めて、「真に宗教的なもの」に手が届くのには、百尺竿頭一歩を進める必要のあることが、絶えず心にかかっていた。
昭和五十四年の秋、たまたま、フランス国営放送主催の「サイエンスと意識」という国際シンポジウム(於スペインのコルトバ)に招かれ、私の平素の疑問を解く絶好のチャンスと思って出かけた。
ところが、コルトバに行く前に、パリの仏国禅寺に弟子丸老師を訪れ、道元禅が、西欧の科学文化にも、宗教にもあき足らない西欧の人びとへの新たな救いになりつつあることを目撃した。(中略)
なお、本書の執筆にあたっては、Ⅰ東洋の英知としての禅を弟子丸泰仙老師、Ⅱ心身医学から見たセルフ・コントロールを池見が担当した。


 昭和五十六年九月一日  池見酉次郞

 

(Ⅰ東洋の英知としての禅の本文より抜粋)

私がヨーロッパへ来たはじめのころ、当時世界各国の国際会議で活躍して「世界禅」を唱道され、禅を身心医学に「禅的療法」として、深く研究されていた故佐藤幸治博士がパリを訪ねられた時、その質問に対して、忌憚なく応答したことがあった。
博士は私のヨーロッパにおける禅の指導法に大変関心を寄せて、旅行日程を変更して数日間道場に起居を共にされ、私と玄米のお粥をすすりながら坐禅を皆と一緒にされたのである。
その時、先生がおっしゃるには、「いや、私は世界中に禅を講演して回っていますが、まだ一度も本当の坐禅を組んだことがなかったんです。いま先生に『まあ、しばらく坐っていかれたら』といわれまして・・・、それにフランス人たちの見事な坐禅の姿勢を見て、大きな感動をおぼえ、つい、彼らにつられて、生まれて初めて真剣に坐禅をすることができたのです。やっぱり口でしゃべり、本に書いている禅と、実際に体験する坐禅とは、全く違ったものであるということが、今わかりました」と告白された。(P22)

 

「セルフ・コントロールと禅」
「セルフ・コントロールと禅」

 

1981昭和56年9月 「日本人に喝-禅的人生のすすめ」弟子丸泰仙著 徳間書店・発行

 

「日本人に喝-禅的人生のすすめ」
プロローグ
-パリからの眺め

いま世界は病める時代(Le temps de maladie)にある。
文明の危機であり、世紀末症状を露呈している。
日本もその例外ではない。
私は日本で生を享け、日本人として育ち、いま日本の仏教・禅の伝道のためヨーロッパで生活をつづけているが、最近パリにおける日本人留学生の狂気的殺人事件などを見るにつけ、祖国日本の精神の荒廃に思いをいたし、とくに若い人たちのために、この本を書こうと思い立った。
私を生んでくれた日本を思い、日本への恩返しのつもりで書くのである。
これは禅僧の衣をぬいだ、赤裸々な人間弟子丸が日本人として、海外から同胞に対する忌憚なき忠告の発言でもある。
(中略)
私は一九六五年、恩師の沢木興道老師が遷化される寸前に出家得度を受けて、五十を過ぎてからヨーロッパに禅を広めようと決意したのである。
老師は生前に「世界中に坐禅を広めて、人類の興奮をさまし、静観せしめたい」とつね日ごろ語られていた。
坐禅の実践により、大乗仏教の「われらと一切の存在がみな共に救われる」という広大無辺の宇宙的精神、正しい仏教を欧米の人々にも伝え、人類の心の奥底に、真の自由と平和をもたらしたいということは、私の年来の宿願でもあった。
日本の仏教界では私を晩年坊主というが、私はすでに二十歳前後に沢木老師に会って、人間の最高の目的が奈辺にあるかを知ったので、そのとき坊さんにしてくださいと頼んだことがあったのだ。
しかし、老師は「職業坊主になるな。ほんとうの禅は、あらゆる生活体験のなかにある。いまのままでいいから坐禅をつづけろ」といわれた。
それから三十有余年、私は会社員として戦時中はインドネシアの鉱山開発、戦後は建設会社の経営に当たり、その後「電力の鬼」で有名だった松永安左衛門翁の秘書、そして外務省の外郭団体・アジア協会の設立にたづさわったりして、まったく波瀾万丈の生活を送ってきた。
だが、そのあいだ坐禅だけは一貫してやめることはなかった。
そこでこうした私の多角的な人生体験を通して、とくに現代の若い人がいだいている社会や人生に対する疑問に答えてみたい。
また、今日ヨーロッパで批判されている経済大国日本の将来を憂うるのあまり、なんとかして日本人の活性化をはかりたいという一念から、甚だおこがましいが、遙かパリより日本人に禅的な喝を入れてみたいのである。
本書が、現代日本にいくばくかの寄与するところあれば、これに過ぎる幸せはない。

 

最近、私のフランスの弟子でジャックス・ブロスという有名な著述家が「サトリ」という題で参禅記を書いている。
これは日本でも東大の森本和夫教授が訳して刊行されている。

 

 

 「日本人に喝」 弟子丸泰仙著
 「日本人に喝」 弟子丸泰仙著

 

 

1982年4月30日 弟子丸(黙堂)泰仙、急性腎不全のため横浜市立市民病院にて67歳で逝去する。 

その後、5月2日、曹洞宗大本山總持寺で告別式が執り行われた。

 

 弟子丸泰仙・某新聞死去報道
 弟子丸泰仙・某新聞死去報道
長野清久寺住職・弟子丸泰仙師(透かし文字入り)転載禁止
長野清久寺住職・弟子丸泰仙師(透かし文字入り)転載禁止
 平常心是道・弟子丸泰仙(色紙)
 平常心是道・弟子丸泰仙(色紙)
 皆空・弟子丸泰仙(色紙)
 皆空・弟子丸泰仙(色紙)



 

 (参考)

「SATORI体験 フランス人の参禅記」

ジャックス・ブロス著 森本和夫訳

1980年8月20日 (株)TBSブリタニカ・発行

 

ジャックス・ブロスが弟子丸泰仙の指導の下で坐禅を組み、接心に参加した時の参禅体験記(Jacques Brosse SATORI Paris 1976)を森本和夫が翻訳したもの。

 

  SATORI体験・フランス人の参禅記
  SATORI体験・フランス人の参禅記

訳者あとがき

 

この本は、Jacques Brosse《 SATORI-ou un debut en zazen 》(Editions Robert Laffont ,Paris ,1976 ) の翻訳である。
ただし、出版の都合上、原書の三分の二あまりを割愛した。(中略)
いわゆる近代文明なるものの行きづまりが誰の目にも明らかになった今日において、心あるヨーロッパ人たちは、懸命に脱却の道を摸索している。(中略)
しかも、そのような文明の毒に最も深く汚染されて身動きつかなくなっているのが、今日の日本の姿ではあるまいか。
著者は「われわれヨーロッパの弟子たちにとって、禅こそは、われわれが際会している世界的危機のなかにおいて、蘇生を約束するものなのである」と述べるのであるが、われわれ日本人は、どのようにして“蘇生”すればよいのであろうか。(後述略)
 一九八〇年七月   訳者(森本和夫)

 



 

(参考)

 
栗田勇著「文明のたそがれ」の書の中に次の言葉がある。

 

「先頃、フランスで特に興味深く思われたのは、青年たちの宗教的なものへの関心の強さである。
たとえば、パリで曹洞宗の坐禅を広めている弟子丸泰仙氏のもとには、ヨーロッパで二十万人に及ぶ弟子がいるという。
事実、パリのアパルトマンの坐禅道場では、朝、昼、夜と三回にわたって、数十人の若い男女が参禅にやってきているのをみた。
まだ若い碧眼の女性が頭をまるめて墨染の衣に身を包んでいる風情は異様ともみえるが、考えてみれば当然のことともいえるだろう。
私は、彼らをつかまえて質問を試みた。
なかには、心理学教授の資格をもつ人も、ソルボンヌ大学やドイツで実存哲学をやってきた者もいる。
なかなか、論理的でもあり、修行も厳密で、東洋エクゾティズムや物好きの果てと言い切ることはできない。
何のために坐禅をするのか、坐禅で得られる境地とは何か、一口で答えてもらいたいとつめよったところ、しばし黙したのち、『リベラション』とひとこと答えた。
『自由』ということである。
『開放』とも訳すことができる。
私は、この語の響きにフランス人の精神をみる想いがした。」

 

1980年5月20日、TBSブリタニカ発行、栗田勇著「文明のたそがれ」195頁~196頁参照

 



 

(参考)

1996年6月28日

「AROLES ZEN 禅の言葉」(コレクション〈智慧の手帖〉2)

マルク・ドゥ・スメト編、弟子丸泰仙・書と墨絵、中沢新一訳

発行所:株式会社・紀伊國屋書店

 

「AROLES ZEN 禅の言葉」マルク・ドゥ・スメト編、弟子丸泰仙・書と墨絵、中沢新一訳
「AROLES ZEN 禅の言葉」マルク・ドゥ・スメト編、弟子丸泰仙・書と墨絵、中沢新一訳


(参考)

禅 諷経と朗詠 弟子丸泰仙 レコード(フランス語)

 

禅 諷経と朗詠 弟子丸泰仙 レコード
禅 諷経と朗詠 弟子丸泰仙 レコード

 

(参考)

弟子丸泰仙 DVD

弟子丸泰仙 DVD
弟子丸泰仙 DVD

澤木(沢木)興道

  澤木(沢木)興道老師
  澤木(沢木)興道老師
 澤木興道老師・短冊
 澤木興道老師・短冊

澤木興道老師・短冊

坐禅「守るとも思はすなから小山田の
    いたつらならぬ僧都(かかし)なりけり
                 遠孫 興道 書」

この短冊は道元禅師の「傘松道詠」にある「坐禅」を詠ったものを、澤木興道老師が書したので、「遠孫興道」と書かれいるのです。

 


【澤木(沢木)興道】


(1880年6月16日~1965年12月21日)


曹洞宗の僧侶。号は「祖門」。
明治13年、三重県津市新東町の多田惣太郎の六番目に生まれる。幼名は「才吉」。
5歳で母「しげ」を亡くし、8歳で父を亡くす。
後に、一身田町の澤木文吉(提灯屋とは名ばかりの博打打ち)の養子となる。
明治29年(1897)、17歳の時に出家を志して、越前の永平寺に行き、入門は許されなかったが、永平寺作業部屋の男衆となる。
明治31年(1899)18歳、九州天草宗心寺住職沢田興法について得度し、僧名「興道」授かる。その後、20歳で兵庫県円通寺に安居する。
ついで丹波(京都府)で笹岡凌雲に随身したが、21歳で兵役に服する。
明治33年12月に入営し、三年後、日露戦争に従軍して重傷を負う。
明治39年、除隊後、一身田町の真宗高田派専門学校に入学
明治41年、大和法隆寺勧学院に移り、佐伯定胤について法相唯識を学ぶ。
大正元年12月、三重県松坂市養泉寺僧堂の単頭となる。
大正3年、35歳より3年間、斑鳩町成福寺に一人こもって坐禅に打ち込む。
大正5年、37歳、丘宗潭の推挙により熊本市大慈寺僧堂講師となり、旧制第五高等学校の生徒達に参禅指導する。
大正11年、43歳、大慈寺を去り、熊本市大徹堂に入ったが、翌年、同市内の万日山に移る。
以後13年間、「移動叢林」と呼ばれたように、各地の参禅道場を転々とし参禅指導に努める。
昭和10年(1935)4月、駒澤大学教授に就任。
同年12月、大本山総持寺後堂に任ぜられる。
昭和12年、61歳、栃木県大中寺に「天暁禪苑」を開設し、また東京渋谷に「至誠寮」及び「無畏城参禅道場」等を開いて、その指導に当たった。
昭和21年、67歳、静岡県大洞院専門僧堂堂長、 京都市妙説庵尼僧堂堂長に就任。
昭和34年、京都安泰寺に「紫竹林参禅道場」を開き、また、曹洞宗立僧堂師家となったが、同38年、駒澤大学教授を辞任し、名誉教授となり、安泰寺に退く。
昭和40年12月21日、世壽八十六歳にて示寂す。

通称「宿なし興道」と称され、生涯自分の寺を持たず、妻帶すること無く、組織(曹洞宗宗門)の中にあって組織を批判し、祇管打坐の坐禪を貫きとうした。
著書は「禅談」「證道歌を語る」など多くあるが、「澤木興道全集」十八巻、別巻一巻に納められている。

 「禪學大辭典」参照