村上天皇(六十二代天皇)
「鼇頭挿画 校正王代一覧」巻之三、協力舎蔵版(明治六年四月上梓)より
「画図 鮮齋永濯」
「鼇頭挿画 校正王代一覧」緒言
『此書原本は、春齊林先生、忠勝朝臣の為めに撰する所、其稿を脱する慶安五年書肆の刊行せしは寛文三年にして、今を距る二百十年なり、世に現存するもの、心耕隠客の跋を附すと雖も、間其文浅劣誤謬錯雑あるは、是れ全く歳月の久しき、傳寫翻刻の數次なるに出でヽ、心耕隠客の校正せし、原本にあらざるを証すべし、故に今舊史に參校訂正し、以て童蒙をして誤らざらしむ。』
村上天皇 在位二十一年。天暦十。天徳四。應和三。康保四。
[延長4年(926)6月2日 ~ 康保4年(967))5月25日]
醍醐(だいご)第十四の皇子、朱雀(しゅじゃく:すざく)同腹(どうふく)の弟なり。
【醍醐だいご】六十代醍醐天皇(朱雀天皇、村上天皇の父)
【朱雀すざく】六十一代朱雀天皇(村上天皇の兄)
諱(いなみ)は成明、朱雀の子(みこ)なきによりて、成明を太子とし位を譲る。
天慶九年、四月二十八日即位す、時に二十一歳なり。
天皇生(うまれ)つき、さかくして、詩をも歌をも作りたまふ。
天暦(てんりゃく)元年正月四日、朱雀院へ朝覲(ちょうきん)の行幸あり、御母皇太后穏(いん)子と、太上天皇とに謁せらる。
【朝覲ちょうきん】年頭に天皇が上皇または皇太后の御所に行幸すること。
【御母皇太后穏子】朱雀天皇、村上天皇の御母堂。
【太上天皇】譲位により皇位を後継者に譲った元天皇、上皇とも云われる。
四月、藤原實頼(さねより)左大臣に轉じ、左大将を兼しめ、其弟師輔(もろすけ)右大臣に任じて、右大将を兼しむ。
父忠平、既に関白太政大臣たること年久し、こヽに至て父子、兄弟、三人同時三公たり、ためしすくなき繁榮なり。
忠平をば小一條殿と號し、實頼をば小野官殿と號し、師輔をば九條殿と號す。
師輔の女安子、天皇の后(きさき)たり。
六月、参議藤原忠文卒(しゅつ)す、歳七十五、中納言を贈らる。
此人将門追討(ついとう)の大将となりて下向す。
【将門追討】平将門の乱、この時藤原忠文は征東大将軍に任ぜられる。
路次(ろじ)より歸て戦功なしといへども、恩賞(おんしょう)行れ然るべしと、師輔申さるといへども、實頼同心なきによりて其沙汰なし。
故に忠丈怒(いかり)て實頼を恨み、師輔に譲るべしと云て、斷食して死す。
其霊によりて、實頼の子孫は衰へ、師輔の子孫は繁昌すと申つたふれども、将門討(うた)れて數年を歴て、忠丈七十餘にて死たれば、世俗の云ところいぶかし。
八月より以後、天下疱瘡(ほうそう)はやりて、諸社へ奉幣し、又讀經祈念せらる。
【奉幣:ほうへい】天皇の命により神社などに幣帛(へいはく:神前へお供えする進物)を奉献すること。
九月、丞相の廟(びょう)を北野に建つ。
【丞相とは君主を補佐した最高位の官吏を指すが、ここでは藤原忠丈のことか?】
十一月、宇治へ行幸し遊猟す。
二年夏、大旱(ひでり)秋大雨あり、八月二十四日、日月並(ならび)見ゆ。
三年正月、太政大臣忠平、疾(やまひ)によりて致仕(ちじ)す、實頼師輔相並(ならん)で政を行す。
【致仕】官職を退いて隠退し、隠居すること。
八月十四日、忠平薨ず、歳七十、正一位を贈られ、信濃公に封じ、貞信(ていじん)公と諡(おくりな)す。
大納言源清蔭(かげ)等勅使として、其の葬所へ行向ふ、摂政十二年、関白八年云云。
九月、陽成太上天皇崩す、歳八十一。
十二月、大江朝綱(もとつな)橘直幹(なほもと)菅原文時大江維時(これとき)等の博士(はかせ)に命じて、詩を撰(えら)ばしめ小野道風をして、其詩を屏風の繪(えの)上に書しむ、繪は巨勢公忠が筆なり。
(画:小野道風)
四年七月、第二の皇子憲(のり)平を太子とす。
五年、藤原伊尹(ただ)を倭歌所の別當として、源順(したかふ)・大中臣能宣(よしのぶ)・清原元輔・紀時文・坂上望城(もちき)、五人に命じて梨壺(なしつぼ)におて後撰倭歌集を作しむ、順は詩文倭歌共にすぐれて、博学の人なり。
【梨壺なしつぼ】平安御所七殿五舎の一つである昭陽舎のこと。
【後撰倭歌集】村上天皇の下命によって編纂された二番目の勅撰和歌集。
六年八月、朱雀太上天皇崩ず、歳三十。
七年三月、大納言兼民部鄕藤原元方薨ず、歳六十六。
【薨】コウ:みまかる、見分の高い人が死ぬこと。
此人の女、天皇の更衣となりて、一ノ宮廣(ひろ)平を産(うめ)り、しかるに二ノ宮憲(のり)平は師輔の外孫なるによりて、一ノ宮をこえて太子に立らる。
【更衣こうい】本来は天皇の衣替えに奉仕する女官の称であったが、後に后を意味する言葉となる。
故に元方恨(うらみ)て憂(うれへ)にしづみて死す、其の後程なく女御も、一ノ宮も薨ぜらる。太子憲平邪(じゃ)気の病にをかさる、元方が怨靈なりといへり。
九年正月、内裏にて法華講あり、始て公鄕をして布施を引しむ。
三月、北野天神託宣(たくせん)にて、右近馬塲に一夜に千本の松生ずといへり。
(画:北野天満宮)
天徳元年四月、師輔五十の算を賀したまひて、藤壺にて宴を設けて、天盃を師輔に賜る。
【藤壺】平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。
二年三月、實頼輦車(れんしゃ)を許さる、十一月、源經基卒す。
【輦車れんしゃ】特に大内裏の中を貴人を乗せて人力で引く車。
三年三月、感神院と清水寺と闘亂のことあり、撿非違(けびい)使を遣して是を治(おさめ)しむ、感神院は祇園なり。
【検非違使けびいし】非違(非法、違法)を検察する天皇の使者の意。
同月、師輔春日(かすが)へ参詣す。
これより後、藤原家大臣春日へ参詣のこと多し、春日は藤原氏の祖神なり、
四年五月四日、右大臣藤原師輔薨ず、歳五十三。
生(うまれ)つき仁愛(じんあい)にて、喜(よろこび)も怒(いかり)も色にあらはさず、人皆惜(をし)む。
八月、藤原顯(あき)忠右大臣に任ず、時平の子なり。
九月、内裏炎上す。
【内裏炎上】天徳4年9月23日、平安京の内裏が炎上した。
平安城へ都を遷(うつ)されてよりこのかた、帝王十三代を歴て、始て炎上せり。
古より傳れる御寶(たから)物も此時多く焼失(せうしつ)せり。
神鏡(きょう)は温明殿にありしが、自ら飛(とび)出て南殿の櫻(さくら)の上にかヽりしを、内侍(ないじ)袖(そで)にうけ奉りて火を避く、神鏡を内侍所と云は是より始る。
十一月、冷泉院に遷(うつり)居たまふ、
應和元年十一月、冷泉院より新造の内裏へ還幸(かんこう)す。
(画:紀州新宮)
二年二月、伊勢、賀茂、松尾、平野、春日へ奉幣使(ほうへいし)を立らる。
【奉幣使ほうへいし】、奉幣とは天皇の命により神社などに幣帛を奉献することであり、その使者の者を指す。
賀茂、松尾へは神馬十匹づヽ進ぜらる、其外諸社へ奉幣使を立らる。
三年二月、太子紫宸(ししん)殿にて元服す。實頼加冠参議藤原朝忠理髪(りはつ)たり。
【理髪りはつ】 元服のとき、頭髪の末を切ったり結んだりして整えたこと。また、その役。
八月實頼石清水に参詣す。是より以後藤家の大臣石清水詣(もうで)おほし。
【石清水】石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、京都府八幡市にある神社。
同月、叡(えい)山の良源、南都の仲算(ざん)等を召て、清凉殿にて宗論(しうろん)せしむ、
【宗論しうろん】仏教で教義とその解釈についての議論のこと。
康保(かうほう)元年四月、中宮藤原安子崩ず。
中宮の妹を登(とう)子と云ふ。天皇の兄重(しげ)明親王の室(しつ)なり。
容貌(ようばう)うるはしきによりて、中宮へ参らるヽ時天皇私す。
此時重明も既(すで)に薨じ、中宮も崩ずるによりて、登子を内裏へ召て寵愛(ちょうあい)せらる。これより村上の朝政衰へぬ。
二年四月、右大臣藤原顯忠薨ず、歳六十八。
十二月、天皇四十の算の御賀あり、
三年正月、源髙明(たかあきら)右大臣に任ず、是は延喜の皇子なり。
八月、律師(りつし)良源天台座主(てんだいざす)となる。慈惠(じえ)僧正是なり。
四年五月二十五日、天皇崩ず、歳四十二、在位二十一年。
改元する者四ツ、天暦、天徳、應和、康保。
【六十三代天皇】冷泉天皇(れいぜいてんのう)。村上天皇の第二皇子で、諱は憲平(のりひら)。
摘要
【村上天皇】御諱は成明。
【即位】天慶九年四月二十日、翌年天暦と改元し、同十一年冬十月十七日、天徳と改元す。同五年辛酉二月十六日、應和と改元し、同四年七月十日、康保と改元す。
天暦原燃、智遠自立して國號を漢と更め、天福十二年とす。西洋紀元九百四十七年也。
天暦五年太祖威自立して國號を周と更め廣順と改元す。天徳四年周恭天皇立ち建隆と改元す。是年宋太祖匡胤周主を廃して立つなり。
【忠文】百川五代の孫にして、枝良の子なり。天慶三年、将門反を謀る時、征東大将軍となる。後ち民部鄕に任じ、こヽに至つて卒す。中納言を贈らる。
【忠平】正二位基經の子なり。幼にして聡慧基經将に極樂寺を創立せんとして地を相す。忠平陪從せり。忠平一所を指して佛閣を創するの地、これより宜しきはなしと、こヽに於て、基經其地をみるに、地形實に絶勝、是は汝後来營構の地となすべし、我は別に定むる所ありと、是より心に之を竒とす。寬平中正五位下侍從に任ぜしより、累進し、延喜の初め、參議に任じ、春官大夫左兵衛督を兼ね(子)、撿非違使別當に任じ、右近衛大将を兼ね(子)、數年大納言に轉じ、遷て左近衛大将を兼ね(子)、十四年右大臣を拝し、十九年宴を其家に賜ひ、壽四十を賀す。延長二年正二位に叙し、左大臣に轉じ、明年東宮の傳を兼ぬ、初め兄時平延喜格式を撰み、未た成るに及ばすして薨す。忠平之を踵成し、格十二巻、式五十巻を上る、朱雀天皇位に即す、忠平に詔して萬機を攝行す、基經薨後攝政關白を置かず、是に至つて、天皇幼冲なるを以て又置く、累表辭すといへとも允さず、六年、太政大臣を拝す。攝政故の如し、天慶二年三宮に准す、輦車を聽るす、是歳満六十なるを以て、六寺に敕して、經を誦み壽を禱る。四年攝政を罷め關白と為す、萬機巨細を宣詔する。太政大臣に白し、然して後ちに奏下すべし。一々仁和の故事の如し。七年疾に遘ひ、度者五十人を賜ひて、平癒を祈る、其後屢(しばしば)職を辭すと雖も許されず、度々度者賜ひ、諸寺に經を誦み、病を禱らしむ。終に驗なく、天暦三年八月小一條第に薨す。年七十、世に小一條太政大臣と稱す。天皇悲悼朝を輟(や)むこと三日。法性寺に葬り、正一位を贈られ、貞信と諡す。敕して荷前例幣のかずに入る。
【巨勢公忠】金岡の子にして、家風をつぎ、最も妙を極む。
【元方】藤原菅根の子、天慶の初め參議に任じ、左大辨を兼ね(子)、天暦中民部鄕を兼ぬ。正三位。大納言に至る。
【更衣】『正誤』大納言元方の女、祐姫は更衣なり。原本「女御」に作るはあやまり成り。
【經基】貞純親王の長子也。親王は清和天皇第六皇子、故に世に經基を稱して六孫王と云ふ。後姓を源朝臣と賜ふ。武畧あり。弓馬に便に和歌を善くす。承平中武藏介と為る。豫め平将門の異謀を蓄るを知り、密に京師に至り之を奏す。朝廷疑ひて納れず。幾ばくもなくして、将門果して反す。是に於て嘉賞す。從五位下を授く。藤原忠文に從ひて、将門を討ず。途にて将門誅に伏しぬるを聞て還る。尋で太宰權少貳に任じ、追捕凶賊使と為り、小野好古に從ふ、藤原純友を討ず。好古師を班するに及んで、特に經基をして餘黨を捜らしむ。時に純友の股肱、佐伯是行、桑原生行未だ誅に伏せず。尚残黨を聚めて西邊を侵掠す。官軍は是行と日向に戰ひ之を破る。藤原貞包是行を擒(とりこ)にす。既にして生行海部郡に冦(あだ)す。經基自ら兵を率い(井)て、接戰數合にして遂に之を破り、生行をいけどりにす。又馬舩及器械雜具を獲る。生行病で獄に死す。乃ち首を斬る。是行生行の首共に京師に傳ふ。賊黨悉く平く。前後式部丞、左衛門權佐、内藏頭、兵部少輔、筑前、信濃、美濃、但馬、伊豫、武藏等の守、鎭守府将軍を歴て、天暦中上野介と為り、正五位下に進み、應和元年卒す。年四十五。
【内侍所】温明殿のこと也。温明殿は内侍これを守護し奉る。故に内侍所といふ。さて鏡劔も内侍所に御座ます。故に内侍所と申奉る也。鏡には限るへからず。御璽をすべて云る名也。
【論説】こヽに云る内侍袖にうけ奉り、云々の説、岩垣氏も國史略に載られたれども、我は據とせず。先此内裏炎上のことは年中行事秘抄、日本紀略、扶桑略記、等に據てよろしかるべし。内侍所と稱するは、御璽を尊みて稱する名なればなり。
【正誤】奉「る」のる字を省き、「りて火を避く」の六字を補ふ。されどもたヾ語をなすのみ。此事正しとせざれば上に云るが如し。
【天皇私す】『正誤』原本、「天皇密通す」とあり。其文穏かならず。「私す」に正し三字を削る。
【安子】右大臣師輔の女。天皇親王たる時之を納る。儲官に居るに及んで、從五位上を授く。登祚の時女御とし、從四位下を授く、從三位に累進し、天暦四年從二位に進む。二年十月皇后と為る。四年父の喪を以て出て兄伊尹の第に居し、康保元年四月、選子主殿寮に産し、數日にして崩す。年三十八。愛宕郡東南陵に葬り、中宇洛陵と稱す。國忌齋を西寺に置き、荷前幣に列す。后は冷泉天皇、圓融天皇、為平親王、承子内親王、輔子内親王、資子内親王、選子内親王を生む。冷泉天皇祚を踐む。后の母從三位藤原盛子に、正一位を贈らる。后を追尊して皇太后と曰ふ。円融天皇禅?を受く、太皇太后を贈らる。后㝡も友弟に厚く、能く下情に通す。妃嬪婢妾皆歡心を得る。崩ずるに及んで、中外哀惜す。天皇廔政事を問す。后務めて匡救翼賛し、人の疾苦する所を除き、而して其欲する所を慫慂す。
【重明親王】初の名は将保、延喜八年親王と為り、尋て四品に叙す。延長六年上野太守に任じ、八年彈正尹と為る。承平中太宰帥を兼ね(子)、七年中務鄕に任す。天慶六年三品に進み、天暦中式部鄕に遷り、五年帯劔を聽さる。八年九月薨す。年四十九。親王學を好んで才名あり。又至行あり。天皇崩ずるに及んで、哀慕して已まず。時に臣子皆期にして公除す。唯親王のみ、獨り公朝の外は衣食服器ともに、敢て綾羅朱漆を用いず。心喪すること三年なり。而して性頗る豪侈なり。天暦中、宴菊を賞す。天子親ら杯酒を親王に賜ぬこと此に始る。
【顯忠】藤原時平の第二子也。延長承平の間、左右中辨を歴て、從四位上に叙し、參議に任ず。天慶中從三位に進み、權中納言を拝し、左衛門督檢非違使別當を兼ね(子)、天暦中大納言正三位に陞る、陸奥、出羽、按察使、右近衛大将を兼ぬ。天徳元年左近衛大将に轉じ、四年從二位に叙し、右大臣を拝す。康保二年薨図ず。年六十八。詔して正二位を贈らる。富小路右大臣と稱す。
【崩】康保四年五月二十五日、御年四十二。御陵は村上陵と申す。山城國葛野郡に在り。田村鄕北中尾、今竜安寺の北東、宇春日谷原山頂巌石にて築きかたしめしところなりと云ぬ。
因みに、この書の摘要の欄に具平親王、小野道風のことが書かれている。
『具平親王』
村上天皇の第七の皇子、母は女御荘子、女王なり、康保二年親王と為り、三品を授く、寬弘四年二品に進み、尋て中務鄕と為り、六年七月薨ず、年四十六、資性英敏にして文才あり、和歌を能くし、兼て音律に工みに、諸技藝通暁せさるなし、著する所、六帖及ひ真字伊勢物語、弘決外典鈔等あり。
『小野道風』
小野篁の孫、葛絃の子にして書を善す、道勁神逸古今に冠絶す、醍醐、朱雀、村上の三朝に歴事し、正四位下内藏頭に至る、醍醐天皇酷た其書を愛し、道風をして榜を書せしむ、一は楷書に書し、一は草書を以てす、初めは楷書を南門に掲ぐ、而して終に草書を用う、道風大に喜んで曰く、嗚呼賢主哉、蓋し得意は草書にありと、又行書法帖各一巻を命じ、僧寬建をして持して唐に往かしむ、蓋し其の美を異邦に播びこらさんと欲する也、其の餘殿壁題字宮門扁榜道風書する所甚た多し、晩に中風を患ひ、手顫れ筆勢彌竒體を生ず、嘗て橘直幹の為めに奏疏を書す、村上天皇常に坐側に置き、たまたま禁闕やけしかば、天皇左右を顧みて曰く、直幹之疏存否とばかりにて、ほかのことを問はず、康保三年卒す、年七十三、凡そ其の書一行隻字、人競ふて之を求む、得ざるものは以て恥と為す、其の貴む所のもの此の如し、後世道風、及ふ藤原佐理、藤原行成等を三蹟と云ふなり。