永平寺3世・徹通義介禅師

 

永平寺三世・徹通義介禅師

 

徹通義介禅師

 

徹通義介禅師像 (写作成・東川寺)
徹通義介禅師像 (写作成・東川寺)

 

承久元年(1219)2月2日
 義介、越前丹生北足羽鄕の藤原氏に生る。
 鎭守府将軍藤原時長の子、利仁の後裔。越前足羽鄕稲津保の稲津一族。
 (波多野氏と稲津氏は姻戚関係になる。)

 

安貞2年(1228)4月
 興福寺衆徒が多武峰の日本達磨宗の堂舎僧坊六十余宇を焼き払う。
 日本達磨宗は離散し、懐奘は覺晏と行動を伴にする。

 懐鑑は越前波著寺に移る。

 

寬喜3年(1231)是歳 13歳
 義介、越前(日本達磨宗)波著寺懐鑒に剃髮を受く。僧名は「義鑑」。
 (後、徹通義介と改める。)

 

寬喜4年(1232)是歳 14歳
 義介、比叡山に登り受戒す。

 

この頃、淨土三部、首楞厳、見性の義を学ぶ。

 

仁治2年(1241)是春 23歳
 懐鑑、義介、義尹、義演、義準等、道元禅師に参ず。

 

寬元元年(1243)7月16日 25歳
 道元禅師一行、波多野義重の勧請により、山城興聖寺を詮慧(あるいは義準)に譲り、越前志比荘に向かう。

 

寬元2年(1244)是歳 26歳
 道元禅師、義介を永平寺典座に充つ。

 

宝治元年(1247)是夏 29歳
 道元禅師、義介を永平寺監寺に充つ。

 

同年8月3日
 道元禅師、鎌倉に向かい、北条時頼に菩薩戒を授く。

 

建長3年(1251)是春 33歳
 義介、覺晏所伝の佛照徳光下の嗣書を懐鑒より受ける。

 

建長5年(1253)4月27日 35歳
 道元禅師、越前志比荘霊山院庵室に於いて、懐鑑終焉の事を義介に問う。

 

建長五年四月二十七日 永平室中聞書(御遺言記録)義价記

永平開闢先師大和尚大禪師。霊山院庵室に於いて雅圓侍者の事。問答の次に御尋に云く。鑒和尚終焉の時曰く、跡の事に至ては。汝に申し付け畢る云々。然るに彼の寺の聖教等の事は如何。

義介曰す。其の時き上之を言ひ候如し。但だ聖教に至ては寺院の公用の為と雖も。其の主の為にす可き之狀。遺囑の書之を帯ぶ。其の外然る可き書籍等少々別に之を傳ふ。
御尋に云く、傳授菩薩戒の作法は如何と。

義介言す。作法並に御書。堂に上て同く以て之を傳ふ。

和尚云く。尤も然る可し。若し汝先年の他遊の如き有らば。其の跡定て狼藉して閑人此れ等を見ん。我が宗門傳授菩薩戒は。尤も一大事因縁也。汝幸に此の戒を傳授す。妄に非器に知らしむること勿れ。鑒師は佛法に志し深き人なり。之に依て深草自り。此の戒の次第を許す。其の後先年関東に下向の因に。重て書状を以て行ぜ被る可き之由。度々に及ぶ。然りと雖も恐惶の餘り、未だ之を行なはずと雖も。聴許せしことは作法並びに書状の如し云々。義介恐惶して之を承る。

又御尋に云く。林際(臨済)下佛照禪師の嗣書は。故鑒師より之を傳授否や。又汝之を見るや。

義介曰す。此の相傳には嗣書と名さず、祖師の圓相のみなりと云々。義介之を拝見す。

師云く。其れをば嗣書と云ふ也。使者に付する書髣髴たれども。又輙く見聞す可きものに非ず。然るに汝之を見る。旁好運也。末世澆運の中に僅に佛法に値遇すと雖も。此れ等を保任すること。尤も器量為り云々。
作法の書様は。聊か青原と南岳とは各別なり、其の後又雲門法眼等の世は、異ると雖も同く是れ嗣書也。
義介曰して言く。故鑒師其の次に申被るに言く。我聞く堂頭和尚に嗣書有りと。深草に於て僧海首座圓寂の因に。此の事を聞く。
先年拝見し奉る之時。堂頭和尚示て云く。尤も然るべし。但し閑人障り有り。自然に便宜を期す可し云々。
之に依り心中其の事を相待つと雖も。虚しく一生終んと欲す。生涯の恨み只た之に有り。若し汝佛祖の冥助あつて嗣書拝見の時有らば。彼の功徳を以て必ず先つ我に回向す可し。我當初東山の邊に有り。此の血脈傳れども。未だ堂頭の嗣書を拝見せず。尤も恨と為す。我今所傳の血脈は。唐の阿育王山の住持佛照禪師自り。津の國の三寶寺能忍和尚之を相傳来也云々。
堂頭和尚示して曰く、誠に先年此の請有りと雖も。便宜を得ずに依て徒に黙止す。其の後不告の故に我而も又忘却せり。然に志深く後に至て忘れざるか。虚く終る事尤も本意に非ず。汝自然に便宜を以て此の嗣書を拝見せば。彼の功徳を以て先師に回向せんことを。尤も遺言の如くす可し。便宜を相ひ待つ可し。但し曹洞嗣書の書様聊か彼に異る。拝見の時に知る可し云々。他來參の間。

義介且く如法に問訊して退く。

 

同年7月8日
 道元禅師、病重ねて増発す、義介之に侍る。

 

同七月八日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
御病重て増発す。義介驚て参拝す。
堂頭和尚示して曰く、汝近前來。義介右邊に近前す。

示して曰く、今生の壽命は此の病必ず限りありと覚ゆ、凡そ人の壽命必ず限りあり、然して病に任すべきにあらず、日比、見被るるの様、我れ随分、人と合力して彼れ此れ醫療を加ふ、然れども全く平癒せず、此れ又驚くべきにあらず、但し今生は如来の佛法に於て、未だ明知せずこと千萬有り、猶を悦ぶことは佛法にて一切邪見を發せず、正に是れ正法に依て正信を取る、其の大意は、只だ如来の所談の如くにして、一切異ること無く、其の趣、存すべきなり然るに當寺は勝地なるに依て、執思の處なりと雖も、其れ又世に随い時に随うべし、佛法は何れの地に於ても所行の勝地と為る、但し國土安穏の間、檀那定て安穩なるべく、檀那安穩なれば、寺中必ず安穩焉、然るに汝寓住すること已に多年に及ぶ、又院門の先達と為す、縦ひ我滅後と雖も、寺院に有りて僧衆と力を合せ、我佛法を守るべし、若し自ら他遊するも本寺に帰り來りて、菴居寓住汝が意に任すべし、云々。

義介落涙悲泣。

恐煌して白して言く、寺に付ても自らに付ても先途の如く殊なる子細そうらはず、一切御命に背く可ら不ず。

時于、和尚落涙合掌して云く、尤も本意なり、我先年より汝を見に、世間に於ても不覺に非ず、又佛法に於ても随分道念有り、皆其の情を知る、唯未だ老婆心有らず、其れも自然に歳を重ねる程、必ず之有る可き云々。介涙を押へて畏る而已。
(時于、懐弉首座、御前に侍し同じく之を承る。)
義介其の後、未だ老婆心有らずの諌、意を忘れず、然れども未だ其の所以を知らず、先年還参之時、参拝の次で密談の因にも此の諌有り、此の條已に両度に及ぶ也。

 

同年7月23日
 義介、五日間の暫暇を道元禅師に請うて永平寺を出て、尋で帰寺す。

 

同七月二拾三日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
義介参拝郷を出るの因に、和尚示て云く、今度郷を出れば草々帰参せ被る可し、仰せ合す可の子細有り、云々。

 

同年7月28日

 

同二拾八日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
義介帰寺参拝。

堂頭和尚示て云く、去る比は決定して命終せんと思ひ居る處、今于存命なり、然るに六波羅蜜より度々の上洛す可の由、申し下され之に依りて縦ひ命は終るとも申し置くべき事等多般なり、兼て又醫療の爲に、來る八月五日に上洛すべき序の間、及び京中までも随身然る可しと雖も、寺院一向に然るべき人無きに依り、今度は留守爲る可し、寺院事等、心に入れて照顧す可し、今度は何れ左様決定して終んと覺るなり、縦ひ若し滅に付か不ども、今年は京に在んか、寺に於ては一向に他人の寺と思は被る可ら不ず、我が寺と思ふ可し、當寺の職に充てざると雖も、度々の勤舊なり、萬事相計て沙汰なすべし、當時は忩々に依て委細にせず、逐て京より重て申し付けるべき事多し、若し又、今度存命にて下向の時は、我が秘蔵の事等、必ず爾に教ふべし、但し人の始て行する事を執る時は、小人之を妬む、故に是れ如き等事の由を、他人に知らしむべからず、汝は世間出間に於て、其の志気有ることを知る、唯だ未だ老婆心有らず、今度帰参早々の由は、此れ等の條なり、條々の事委く註せず。

此れ等の條、懐義(懐弉?)師姑も障子を隔つと雖も、同く之を承る。

 


同年8月3日
 道元禅師、八齋戒の印板を義介に與う。

 

同八月三日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記

八齋戒の印板を賜う。

 

同年8月5日
 京都六波羅波多野義重の勧説により、懐奘、義介等を伴い、療養のため上洛の途に就く。


同年8月6日
 義介、越前脇本の宿に道元禅師に別れ永平寺に帰る。

 

同八月六日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記

義介脇本御旅宿に於て、暇を賜ふの因に拝問して云く。

今度御共尤も本望なりと雖も、仰せに随ひ帰寺いたすべし、若し御延引有る時は、拝見の爲め参洛せんと欲す、御許し蒙るべき哉。

和尚示して曰く、應諾、尤も然る可し、左右に及ばず、但し我れ寺院を思ふが故に、汝を留め置く、相構えて寺院を能く能く照顧せらる可し、汝は當國の人にして、故鑒師の弟子なり、故に斯の國中多く之を知る、内外に付て子細を存すること有る故に留め置く云々。

義介畏れて之を承る、是れ則ち最後の拝顔、最後の厳命なり、尋常ね肝に銘じて忘れざるなり。

 

建長5年(1253)8月28日(陰暦)(陽暦9月29日)

 

 道元禅師、京都高辻西洞院覺念の邸に示寂す、世壽五十四歳。

 

建長6年(1254)正月 36歳
 懐奘、義介に伊王舎利等の法事を示す。

 

建長六年正月。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
永平二世和尚示して曰く。

伊王舎利伴の事、波斯匿王馬人事、如湯盞の事、七郎器供物等事、佛殿右脇の事、佛殿に用ふる燈の事、火事松子の事、頂戴書の事、付請の事、侍者の事、維那に対する觸禮三拝の事、柳松の事、保衡か詩の事、立三の事、(付戒)月旦月半拝の事、叩戸歩の事、佛樹の事。

(我國の坊號也、宋朝此の名を知る。)

 

同年12月23日
 懐奘、嗣書傳法の記録を義介に示す。

 

建長六年甲寅十二月二十三日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
初夜已後、方丈に於て嗣書傳法の事を見聞し記六す、又松花の事沙汰有り、又受戒の事之有り、示して曰く、天童忌の時の、一相の御語六(録)云ふ也。

 

建長7年(1255)正月2日 37歳
 義介、初めて懐奘に入室す。

 

建長七年乙卯正月二日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
義介初て第二世堂頭和尚を拝す、初夜の後、方丈に参る、羅漢前の間に於て之れを行ふ、羅漢前香臺に於て、燒香し大展三拝す、對拝有り。

 

同年正月3日
 懐奘、嗣書並びに傳衣の事を義介に示す。

 

同三日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
堂頭和尚の嗣書並びに袈裟を傳ふる事、委細に示して言く、先師の室内此の事に至りては能く知る者の只だ我れ一人して、餘人にして知れるもの一人も無し、此の事に至ては傳法すべき人之を知る也、露命定めざるが故に之れを示す、我れ此れを記さず、汝此れを記すべからず、只だ憶持して忘れざれ云々、故に今此れを記さざる也。
又、示して曰く、代宗の時、袈裟内裏に請して、有處に裏を就けし事、又、芙蓉の袈裟傳て天童に有りし事、傳衣に見ゆ、之れ依り不審の事之れ有り。
又、云く、法衣此の内に傳へども見聞に及ばず、或る人自ら称するのみ也云々。
又、示して曰く、黄龍下の受戒血脈は然るべからざる故に破る、已後當時定める、(或る人此の本を持す)惣じて佛法世間に付き密談有るの次、如上の商量有る也、受戒叩戸の事、九拜の事、後ち特に教授し對し拝する事。

 

同年正月6日
 義介、諸悪莫作の法要を懐奘に問う。

 

同六日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
夜参る。

二(ママ)談有る次でに、義介咨問して云く。

義介先年同一類の法内の所談に云く、佛法の中に於て諸悪莫作、衆善奉行の故に、佛法中に諸悪は元來莫作なるが故に、一切行皆佛法なり、所以に挙手動足一切の所作、凡そ諸法の生起する皆な佛法と云々、此の見正見なりや。和尚答て云く。

先師門徒の中、此の邪見起こす一類有る故に、在世の時、義絶し畢り、門徒を放たること明白なり、此の邪義を立てたるに依る也、若し先師の佛法を慕はんと欲する輩は、共に語り同座すべからず、是れ則ち先師の遺戒なり。

義介重て云く。

建長五年七月八日、先師大和尚、義介に示して云く、今生、如來の佛法に於て、未だ明知せずの處千萬端有りと雖も、佛法に於て一切邪見を起こさず、正に是れ正法に依りて正信を取る、其の趣は、只だ日比所談の如く、一切異義有ること無し、其の旨を存ぜざるべし云々と、其の時、御前に伺候し、同く御座に聴く、若し一類の見解の如くならば、實に先師の佛法に違ふべきか。

示して曰く、其の時の事等、吾同く之れを聞けり、誠に其の時の事等、虚く設くばからず、伋て信を取るなり。

又、義介曰く。

先日煩く参拝を請ふ、恐る所、千萬端なれども、然れども義介忝く先師の席末に参すること十餘歳を送る、然るに先年重て發心し、自ら参学を勵して時光を惜むと雖も、身の不肖を顧て、問うべき問はず、學べき學ばず、拝問を期すと雖も、先師半途にて不慮に圓寂に遇ふ、一身の恨みとなす、然りと雖も義介同學兄弟の類、猶ほ残て等輩の中に寓住し、久しく開示を聞く、謂所、人天の爲に開演し、雲水の爲めに談盡せられしこと是れの如く、先師の説法義介の會不會は且く置く、聞くことは悉く之れを聞けり、此の外に先師の屋裏、什麼の法か有る、生死事大無常迅速、光陰速に過ぐ、伏して望むらくは和尚慈悲開示したまへ。

堂頭和尚示して曰く。誠に法眷たる上に、鑒師の嫡弟なり、終焉に遺屬を聞くの状、因縁一に非ず、況や又永平に於て院門の舊參にして參學の先達と爲る、當時肩を齋するもの無し、向後向來、師の爲たるが故に、内心尤も重しと爲す、故に尋常ね相互に燒香禮拜すべしと雖も、便宜を得ざる歟、黙止するのみ、然るに這來始て燒香禮拜し畢る、尤も悦びと爲す、禮其の寮に還るべしと雖も、便宜ならず、仍て之れを略す、然も殊に參□(門か)子細、心中の所作起動、是の如く尋ね有り、尤も喜と爲す矣、某甲も舊見を改め先師會に參すること已に二十餘年に及ぶ、堂奥を許さるる、咨問參學も他人に勝り皆之れを知る、然と雖も性元と愚鈍にして失落する所尤も多し矣、誠に他の聞かざる所聞くと雖も、他の聞ける所を聞かざること無し、然れども佛法に於て、大意同して全く内外無し、衆中に於て開示せらるるが如し。
先師常に示して曰く、若し我れ佛法にて内外存せば、諸天聖衆定て聞こしめて、必ず又虚妄の罪に堕せん歟、唯だ秘事の口訣有り、未だ他の爲に説せざる者は、所謂住持の心術、寺院作法、乃至嗣書相傳の次第、授菩薩戒の作法、如是の等の事なり、是れ等は傳法の人にあらざれば輙く傳へず云々。

然も是の如く事等も懐弉某甲一人之れを傳ふ、此の等條又先日示せるが如く、佛法にて一切、私無し也、内外有ること無し、只だ大小両乗傳持の祖師に合府す、若し佛の教に違ふが如くの者、全く佛祖の教にあらず、此れ等趣き、先師の訓訣なり、只し汝も見聞せり矣。

義介云く、示し云はせるる所談の外、全く異る御趣有るべからざるの條尤も然るべし。

又示して曰く、一類所談の趣きの如く、人事を見ざる也、唯だ時の學者に依り、随身自ら佛法に違ふ者有り、□□□□也。

義介云く、先師の佛法假令ひ一類の所談の如しと雖も、先師已に是の如く説くを邪見と爲す云々。

此の見を知存する輩は、皆邪見なるべし、況や諸法實相の體達せば、豈に如來を超んや、然ども如來自らも精進して教たまふ、弟子も精進す、故に佛法は只だ此の趣なるべき歟。

和尚應諾。
和尚示して曰く。

先師云く、我専ら道心を習ふ、道心最も眞實ならば、衆生を濟度し、佛法弘通せん、心中事に随ひ表裏有るに似たるも、然も本意を失はず云々。

(後略)

 

同年正月7日

 義介、道元禅師の身心脱落の話に就いて、自己の所信を懐奘に述ぶ。

 

同七日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
巳の時坐禪の中、先師大悟の因縁は、身心脱落の話に依て、聊か力を得たまふ、坐禪罷に方丈に参して、参拝して云く。

義介も今日先師の道(のたま)ふ身心脱落依て聊か省有り。
和尚曰く、好し好し什麼とか會す。

義介云く、身心脱落脱落身心と會す。

和尚云く、意旨如何、義介将に謂へり胡鬚赤と更に赤胡鬚の有ることを。

和尚云く、身心許多の中に、是の如くの身心も有るべしと云々。

義介禮拜して退す。

 

同年正月13日
 義介、懐奘に就いて嗣書を看る。

 

同十三日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
初夜の後、御影の前に於て嗣書を拝見する事。
先す、書を棹上に安す、他香三、開香九、義介香九、如法に拝見す、九盡々々、収、他香三。

佛祖命脈證契即通□□□通。


同年2月2日
 義介、先師道元禅師弘通の佛法に就いて、自己の所信を懐奘に述ぶ。

 

建長七年二月二日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
參次雑談の次で、義介云く。

發心已後又發心す、直下佛法を信じ佛法を志求して、未だ休まず、然りと雖も佛法に於て眞實に正信を取る、必ず其の期有る歟、其の所以は先師の會に於て法を聞く所の、此の一両年は之れを稽古す、皆是れ先師に聞く所と雖も、當初と今と異なり、所謂異とは、先師弘通の佛法は、今の叢林の作法進退正しく是れ佛儀佛法と聞くと雖も、内心私に存す、此の外に眞實の佛法定めて之れ存らんと、然ども近比、此の見を改め、今の叢林の作法威儀等、此れ則ち眞實の佛法と知るなり、縦ひ此の外、佛祖の佛法無量と云ふも、此れ等皆一色の佛法なり、今日の佛威儀、擧手動足の外、別に法性甚深の理有る可ら不ず、此の旨眞實に信を取るなり。
和尚示して云く、先師の佛法は眞實に是の如し、汝已に是の如くならば、先師の佛法を疑ず、古人云く、今日已後天下人の舌頭を疑著せずと、汝も亦復是の如し。

(後略)

 

同年2月13日。

 懐弉、義介を諭す。

 

十三日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
(前述略)
示して曰く。

此の條今に至り相違せず、人力を励ますに、佛祖の冥助なり、子細多般あり、今日是の如く事等閑せず、是れ又偏へに先師の冥薫か、上洛の時、御留守に宛らる時、皆子細有り、又、先師尋常ね上へ擧化され、是非の中に云く、汝が本師に於て、人見るの眼有り、然して汝を許して嫡嗣と爲す、又、我が會に參して直綴を著して以來、今まで放逸無きの聞へ、又、其の兄弟多しと雖も、實に是れ佛法者なり、其の神際、抜群の志気有り。

彼の玄明等に似ず、當時の事に依て罸ことは、院内の例なり、彼の身に於ては不覺なるには非ず、或いは事物に依りて伊れ式、罹れり、師の方に依り此れを沙汰するなり。

又、壮年の時、非例の眼に掛る耳に聞ゆるの沙汰の事は、若き時、習ふなり、佛法に於て、發心已後は全く不退なり、今左左も非無し、非の指す可あらば人點せんや、身に於ても禁無を加ふ合に云々、常に是の如く示さる、誠に先師多年汝を見ること是の如く示さる、眞實に佛法に於て通路有る歟、今日是の如く相違無く此の事を遂ぐ、尤も随喜すと云々。


同年2月14日
 義介、懐奘に嗣法す。

 

十四日。  永平室中聞書(御遺言記録)義价記
粥了て示して曰く。

我が身命も不定なり、然りと雖も今日より已後、縦ひ何事有りと雖も恨むに非ず、我れ已に佛種を断るの罪を免る、縦ひ我れ此の法を嗣と雖も、其の人を得ずんば、今、断絶の如し、生々恨なり、然ども汝を得て此の事を遂け、我が願い已に成就す、若し向後、人を得る時は、縦ひ多少の人に書をあたう可きを許すと雖も、本を見しむ可らず、是の如く汝には本を以て附す可し、嫡嗣受戒の時は、先ず受戒し、比丘尼なりとも比丘を爲し參頭と爲すべし事、然る可し歟。
示して曰く、傳法已後は子に附するに威儀を具せず、先師云く、我れ天童に在りて傳法已後、時有て方丈に参す、方丈は威儀を具せず、□之次て示して曰く、傳法已後の故に爾るなり云々、此れ外人に於ては、若くは小師若くは親族と雖も然らざる也、先師、法を授附する沙汰已後は是の如し、又、以前の付も威儀を具せざる也、尋常是の如し、親門の師子爲ればなり、余人は然らざる也、。
示して曰く、國王受戒の時、戒師と爲る事、拝時の事、教授座の事、設座事。
(此の記録、先師寒巖和尚親筆の本を将て之を傳写す、先師示寂の時、常賢首座侍香として拾し先師自筆の戒儀と、並び自筆の寶慶記と及び此の記録とを収む、一生之を護持す、大智、大慈寺瑞華庵に於て此の本を拝請し傳写已に畢る。)後述略)

 

この後、京都建仁寺、東福寺、鎌倉寿福寺、建長寺等を視察する。

 

建長8年(宝祐四年・1256)
 是歳 明州天童山景徳寺、災す。

 

正嘉2年(1258)2月23日
 開基・波多野義重公、逝去す。 (一説、1月23日)

 

正元元年(1259) 41歳
 義介、懐奘の命により、永平寺の伽藍、規矩の整備のため、入宋し、明州天童山に入る。
この時、如意輪、虚空藏の二菩薩像を彫刻し、誓願を立て、願文を作る。

 

如意輪虚空藏像・願文

吾、先師の唯願を果たんが爲めに、永平の宗風を日本國裡に一興せんと欲す、又、弉師の命有り、身を波濤に任せ、命を師勅に軽す、菩薩、力を合わせて叢席を興行し賜え、若し海中に命を没せば、再来して願いを果たさん・・・ (三大尊行状記)

 

弘長元年(1261) 寂円、永平寺を去り、越前大野木本野銀椀峯に入り、後、宝慶寺開山となる。

 

弘長2年(1262)是歳 44歳
 義介、帰朝す。 
この時「五山十刹図」を将来したと伝えられる。 (大宋名藍図)

 この「五山十刹図」の義介手写図録説を疑問視する説もある。

 

「五山十刹図」
「新版禪學大辭典」には
『【五山十刹圖】二巻、徹通義介書写。中国宋代禅刹図式。紙本巻軸。重文。禅刹の万寿寺・霊隠寺・景徳寺・蒋山寺・万年寺・浄慈寺・竜遊寺・何山寺等の寺院の、伽藍配置・伽藍建築様式・佛殿・法堂内荘厳相・開山堂・僧堂・衆寮・洗面所から、佛具・器具約二十種、また法要行事に関して、佛殿諷経・楞厳会・僧堂念誦及巡堂・土地堂念誦・出班燒香・告香等の全体もしくは部分が図示されている。原図巻は石川県金沢市長坂町曹洞宗大乗寺蔵(現在、石川県美術館委託)。大乗寺伝によれば同寺開山徹通義介が入宋して五山十刹等諸寺への歴訪時、手写将来したものという。』とある。
しかし、横山秀哉「宋朝禅林の伽藍構成について」137頁には『現在ひろく信ぜられている徹通禅師手写図録説も禅師が入宋して天童山へ登ったのは景徳寺が宝祐四年の罹災後三年目の開慶元年(1259)のことであったから、右図式の存在と将来なら認められるが手写図録説は成立しない。・・・』と書かれている。

 

文永4年(1267)4月8日 49歳
 懐奘、永平寺を退き、義介、永平寺に住す。

 

義介は入宋見聞した経験により、永平寺の伽藍と規矩を整備する。

 

「建山門、造両廊、安置三尊、祖師三尊、土地五軀、悉造焉、四節禮儀、初夜更點、粥罷諷経、掛搭儀式等、禮法悉師所調行也。」(三祖行業記) 

「供衆起造、説法具足、鐘鼓分明、香燒不絶、叢席一興、諸縁具足、緇白皆言、可謂永平中興。」三祖行業記)

 (緇白とは道俗、出家・在家のこと。)

 

文永9年(1272)2月 54歳
 義介、永平寺を退き、山下に養母堂を構え生母を養う。
このことに対し、波多野氏は「常住米穀以下、一切分與供養」と義介を援助した。

 

 懐奘、再び永平寺に上る。(異説有り。)

 

同年4月
 懐奘、結夏小参法語
介公東堂老は吾が法嫡なり、また當山に於いて大功有り、況んや當山前住ならんや、徳、山に重なり、道、天に高し、誠に是れ人天の導師、又、乃ち當山の至尊なり、縦い當住にあらざると雖も、須く尊重恭敬し奉るべし(永平寺三祖行業記)

 

建治元年(1275)是歳 57歳
 瑩山紹瑾、永平寺に義介に就いて出家す。

 

弘安3年(1280)8月15日 62歳
 懐奘、道元禅師所伝の袈裟を義介に授く。

 

弘安3年8月24日

 孤雲懐奘禅師、遷化す。世壽八十三歳

 

 是歳 義介、永平寺を主管す。七年間。(異説有り。)

 

弘安6年(1283)是歳 (一説、弘長3年)?
 義介、法印澄海の請により加賀大乗寺に住す。 (「大乘聯芳誌」より)

 

弘安8年(1285)是歳 67歳
 瑩山紹瑾、義介を辞して遊方の途に就く。

 

弘安10年(1287)是歳 69歳

 義介、永平寺を退董す。後、義演が住持す。(異説有り。)


 永平寺内の義介に反旗を翻した僧徒達が、義介を永平寺寺外に追逐する。?

 

正応2年(1289)是歳 71歳
 瑩山紹瑾、加賀大乗寺に義介を省し、聞聲悟道す。

 

正応5年(1292)8月19日 

 是より先(8月13日)、瑩山紹瑾、永平寺妙高台に「佛祖正傳菩薩戒作法」一巻を書写す。此の日、義演、之を瑩山紹瑾に読校せしめ尋で傳授す。

 

永仁元年(1293)是歳 75歳
 義介、加賀大乗寺開堂の法會を挙げる。

 

 金沢・大乗寺・絵葉書 (東川寺所蔵)
 金沢・大乗寺・絵葉書 (東川寺所蔵)

 

永仁3年(1295)正月14日 77歳
 瑩山紹瑾、義介に入室嗣法し、懐奘所伝の法衣(道元禅師自縫)を受ける。

 

永仁6年(1298)是歳 80歳
 義介、加賀大乗寺を退く。

 

永仁七年(1299)是歳 81歳
 瑩山紹瑾、加賀大乗寺に義介に参得し尋で嗣法す。(洞谷記)

 

同年、9月13日 越前宝慶寺寂円、寂す。義雲その後席を董す。

 

嘉元4年(1306)11月3日 (徳治元年?) 88歳
 義介、臨済家の嗣書血脈及び六祖大師霊牙等を瑩山紹瑾に附し、曹洞家嗣書の助證と為す。

 

延慶2年(1309)8月2日
 義介、疾を示す。(永平寺三祖行業記)


同年9月2日
 義介、沙弥、童行に剃髪受具せしむ。(永平寺三祖行業記)


同年9月12日
 義介、諸門弟に遺囑せしむ。(永平寺三祖行業記)

 

 

延慶2年(1309)9月14日
 徹通義介、遷化す。世壽九十一歳。

 

遺偈

 「七顛八倒。九十一年。蘆花、雪を覆い。午後、月円かなり。」

 

 搭を西北隅に建て、定光院と称す。

 

 

正和元年(1312)是歳
 四世義演、道元禅師の法衣に書付けをす。

 

正和3年(1314)10月26日
 四世義演、遷化す。

 

同年12月2日
 宝慶寺義雲、永平寺に住持す。(永平寺五世中興)

 

問題点

 

「三代相論」

「永平寺再住説」

「大乗寺晋住の時期」

 

 

 「三代相論」

 

この永平寺「三代相論」は諸説があり、結論を得ていない。
抑もこの「三代相論」ということが実際あったのか、どうかということさえも議論されている。

 

諸説の第一は、「三代相論」 とは義介と義演をめぐる対立抗争であるが、具体的には、義介及び義演の示寂後、その遺弟たちの間において、永平寺の三代位を義介・義演のいずれかにするかについて争った事件であるとする説。
第二は、(永平寺)住持の世代についてではなく、師兄・師弟についての、純粋な法系論争、嗣法論争であったとする説。
第三は、三代相論は、永平寺内における進歩派に対する保守派の抗争であり、そこには、単なる派閥や世代の列位の問題とは異なる、思想的背景があったとする説。
第四は、永平寺義演の寂後、義介、義演の遺弟たちが、永平寺祖師堂に歴住牌を安置するにあって、両派それぞれ吾が師を挙示し、鎌倉殿北条高時の判断を仰いだが結論が出ないまま、結局、「當山前住价和尚」「當山前住演和尚」として、霊牌入堂するに至り、替わって寂円が「本山第三祖」に迎えられた事件を云うとする説。
以上の外にも様々な説がある。

 しかし、三代相論という事件は結論的にいうなら、教団分裂あるいは住持位追逐、、世代位の争いというような悲劇的事件としての三代相論という事件は、あり得なかったということができよう。(中略)

しからば、道元禅師滅後の永平寺教団は平穏無事に懐奘・義介・義演へと相続されていったかというと、決してそうとはいえない。すなわち道元禅師という宗教的中核を失った永平寺教団は、宗義的にも、また教団運営の上からも、大いに動揺を来したことは疑いない。「永平寺史・上巻」205~224頁参照
「永平寺史・上巻・第二章・第2節三代相論について」には概略上記のように記載されている。

 

だが、下記のことも考慮しなければならない。
永平寺三十五世版饒晃全の代に「永平寺の世代改め」がおこなわれ、それまで、開山道元-二世懐奘-前住義介-前住義演-中興義雲-五世曇希、となっていたのを、三世義介、四世義演として位牌を新設したとされるからである。 この世代改めに対して卍山道白は晃全に書翰を送り、その英断を讃えている。(鷹峯卍山和尚廣録、巻三十三) 「永平寺史・上巻」713頁、「永平寺年表」96頁、参照

晃全の代の「世代改め」は、その遷化によってうやむやにされ、さらに四十世喝玄も面山と相談の上、世代を改めようとしたのである。

しかし永平寺の世代順が、実際に現在見るような世代となるのには、寛政十年、五十世玄透即中が永平寺世代牌を改めるまで待たなければならない。(注1)

 

天童如浄和尚智識験弁点験大明目(巻末)・永平寺史料全書禅籍編第一巻より(東川寺写作成)
天童如浄和尚智識験弁点験大明目(巻末)・永平寺史料全書禅籍編第一巻より(東川寺写作成)

 

義介、義演が示寂してより、実に480年余を経て、三代相論が完全に終決するのであって、「三代相論」を論ずるにあたり、この「世代改め」を念頭に置いて論理を展開することが求められる。さもなければ徒に空論となる恐れがある。

 

「三代相論」一考察 

「永平寺の世代」が、開山道元-二世懐奘-前住義介-前住義演-中興義雲-五世曇希となっていたとすれば、どのような事でこのようになったのか。
それは天童如浄-永平道元と続く曹洞の純粋な法系を維持したいと考え,「日本達磨宗法系を永平寺の世代に入れたくない」との意志を持った人達が「永平寺の世代牌」をこの様にしたと考えざるをえない。この考えを持ち、これを実行した人達は、寂円派の人達であろう。 それ故に「中興義雲-五世曇希」となっていることと、その後、永平寺住持は寂円派が続いていることが、これを物語っている。

(一時、三世寂円としたと云う説もある。)

義雲は梵鐘銘にもある通り、自ら五世としており、この変則的な世代順は五世以降の住職、あるいは曇希がこの変則的な世代順と深い関係があるのではないか?とも考える。

 

大久保道舟は「道元禅師伝の研究」(後篇・第一章・第三節)の中で三代相論は法系論争ということになると結論していている。


(義介は日本達磨宗の法を嗣ぎ、さらに懐弉から道元禅師より伝わる曹洞の法を嗣いだ。さらに義介は達磨宗・臨済の嗣書を法嗣の瑩山禅師に伝授した。)


この問題について大久保道舟は同書443頁に、次の如く指摘している。
若し義介の態度を厳正に批判するならば、恐らくこの洞済(曹洞・臨済)両家を嗣承したことの不純さと、而して永平の法燈を伝授する場合にも、猶依然として達磨宗の嗣書を用いていることを非難するであろう。たとえそれが助証として用いられたにせよ、(道元)禅師の嗣書の精神からいえば、それはあまりに不純であったといわねばならぬ。


「義介の嗣法」
① 臨済宗(日本達磨宗)
  大慧宗杲-仏照徳光-大日房能忍-覺晏-懐鑑-徹通義介-瑩山紹瑾
② 曹洞宗
  天童如浄-永平道元-孤雲懐弉-徹通義介-瑩山紹瑾

 

 

「永平寺再住説」

 

弘安3年8月24日に孤雲懐奘が遷化した後、義介が永平寺を七年間主管したとされる。

しかし、義介に対して反旗を翻した勢力の残る永平寺に再び入り、永平寺を掌握できたのかと疑問視する説もある。

 

 

「大乗寺晋住の時期」

 

大乗寺晋住の時期の四説。

 

①   弘長3年(1263)。(永光寺中興雑記)

 

② 弘安6年(1283)義介、法印澄海の請により加賀大乗寺に住す。(大乘聯芳誌)

 

③ 永仁元年(1293)義介、加賀大乗寺開堂の法會を挙げる。(大乘聯芳誌)
  この年をもって義介が大乗寺に住職した年とする説も多い。

 

④ 徳治2年(1307)。(永平開山道元禪師行状建撕記)

 

(注1)

改永平寺世牌記

 

建撕記に載す高祖所述の興聖寺僧堂募縁疏に附して云く、永平六世 (曇希を六世と為すは其の證一にせず、宝慶寺碑陰に刻して云く、本山第六世と云云、今宝慶寺塔處に現存す、宝慶歴世の住持何ぞ檢るや看一次にして謬誤を改めざるや)  奥書に云く、佛祖の方便門を開き、眞實相を示すや不可思議なり、秘密蔵裏の寶なり、擬人面前に向て顕示す可かざるなり、貞和三年十一月七日永平に住する曇希書すと云云、十四世建撕和尚筆記する所の者斯の如きなり、然して則ち、義雲を五世と為す、 (永平寺鐘銘に鐫て云く當山第五代住持義雲と云云、金に鐫り石に刻す證、此より白なれば無し乎) 、曇希を六世と為すこと全く疑を容れる所無し也矣、知らず、何の代にしてか中興義雲の上に於、五世の二字を脱して、以て歴代の位次をして謬亂して使るに至るや、老衲住山焉を憾む、此の事已むを得ず、遂に明證數件を挙げて、改革の由を公廰に告ぐ、公廰之を可とす、新に五代已下諸代の牌を建て、乃ち世系の明覈なることを得、心意泰然なり、猶を旦、舊習を固執して枉を挙げ直措、私竊(ヒソカニ)相議の者有るも、今此の記を閲せ疑情其冰泮せん、卒に抄出して以て不信の流たひに提耳せざることを得ず、喋々斯の如くたること云う、
 日本寛政十年戊午秋八月穀旦
  當山第五十代比丘
 勅特賜洞宗宏振禪師
  玄透即中自記以備

 

「永平寺史・下巻」第七章、古規復古と玄透即中禅師・第三節永平寺古規則復古・永平寺世代改め1148~1151頁より

 

(参考)
寂光苑の五十世玄透墓碑台座には「本山世系之濫也、訴官之其事詳改世牌記中、然數世列塔又傍標云四十八世、今標五十世、則不知、中右之監者、以一世脱擬之無可想知矣、觀者請須與改牌之記併知之」とある。

 

永平室中聞書(御遺言記録)義价記

 

上記「永平室中聞書(御遺言記録)義价記」は大久保道舟・著の「永平二祖孤雲懐弉禪師御傳記」(昭和5年5月5日・鴻盟社発行)巻末附録「永平室中聞書」に依った。

 

大久保道舟著「永平二祖孤雲懐弉禪師御傳記」(東川寺蔵本)
大久保道舟著「永平二祖孤雲懐弉禪師御傳記」(東川寺蔵本)