永平寺七十六世 秦 慧玉禅師
(世称)
秦 慧玉(はた えぎょく)
(道号・法諱)
明峰慧玉(めいほう えぎょく)
(禅師号)
慈眼福海禅師
(じげんふくかいぜんじ)
(生誕)
明治29年(1896)3月25日
(示寂)
昭和60年(1985)1月3日
(世壽)
90歳
(特記)
能筆家(能書家)であり、国技館に掲げられている書(無尽蔵)が絶筆とされている。
好角家。
秦慧玉禅師の書
「麻三斤」
「碧巌録十二」「無門関十八」等にあり。
「僧、洞山に問う。いかなるか是れ仏。(洞)山云わく、麻三斤。」
秦慧玉禅師の経歴は微妙に各著書によって違いがあり、この度「秦慧玉禅師法語録」掲載の経歴(657 ~674頁)に従い訂正した箇所があります。御了承ください。
明治29年(1896)3月25日 神戸市荒田町の虎谷家で生まれる。幼名「玉一」。
明治34年(1901)6月 6歳 父、が病死する。
明治34年(1901)9月 6歳 兵庫県豊岡市長松寺に入門、高弟の秦慧錦の養子となる。
明治36年(1903)8月 8歳 長松寺住職秦慧昭師について得度、法名「慧玉」。
明治43年(1910)4月 15歳 城崎尋常小学校を経て、県立豊岡中学校入学。
明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
大正4年(1915)3月 20歳 県立豊岡中学校を卒業。
大正5年(1916)1月 21歳 秦慧昭師の法を継ぐ(嗣法)、道号「明峰」。
大正5年(1916)3月 21歳 曹洞宗立世田谷中学校補修科卒業。
大正6年(1917)12月 22歳 千葉県高徳寺に首先住職。
大正7年(1918)8月 23歳 東京、寶昌寺の住職となる。
大正9年(1920)7月 25歳 曹洞宗大学林卒業。
大正10年(1921)26歳 伊深正眼寺で修行。
大正12年(1923)4月 28歳 東京帝国大学に入学。
同年5月、宇井伯寿の勧めで、東北帝国大学に転学する。
竹内義雄に師事し、支那学を学ぶ。
大正15年(1926)3月 31歳 東北帝国大学を卒業。
同年9月、旧制浦和高等学校(現埼玉大学)の教授となる。(20年間)
大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
昭和元年(1926)(12月25日-12月31日)
昭和2年(1927)9月 32歳 駒澤大学の講師となり、後、教授となる。
(33年間)
昭和12年(1937)9月 42歳 東京、田中寺の住職となる。
・・・私の母は、私が四十二歳のときに弟の家で死にました。七十二歳でした。それから四十五年たった。もうすぐ五十回忌を迎えます。私事で恐れ入りますけれども、私が五歳半で母と生き別れて小僧になった。それから二十歳まで母に逢わなかった。二十歳のときに十五年振りに逢った。印象が何もなくなった頃に逢った。それ以来再びずーっと不孝をしました。出家したから仕方のないことですが、非常に申しわけのないことです。・・・(「好日好時」79~80頁、八月十五日曉天坐禅中垂示より)
昭和16年(1941)12月8日 日米開戦(真珠湾攻撃)
昭和20年(1945)3月 50歳 旧制浦和高等学校の教授を退任。
昭和20年(1945)8月15日 太平洋戦争終結(ポツダム宣言受諾、敗戦)
昭和22年(1947)3月 52歳 兵庫県豊岡市長松寺の住職を兼務する。
同年 駒澤大學教授を辞任する。
昭和23年(1948)9月 53歳 青葉学園の園長に就任。(10年間)
昭和25年(1950)7月 55歳 長松寺住職を辞任する。
昭和27年(1952)4月 57歳 寶昌寺住職を辞任する。
昭和27年(1952)5月20日
「新詩偈作法」を著し、鴻盟社より出版する。
昭和33年(1958)63歳 青葉学園園長を退任。
同年4月 永平寺後堂に就任。(3年間)
昭和36年(1961)7月18日 66歳
永平寺後堂を辞任する。
昭和37年(1962)9月 67歳 曹洞宗管長の高階瓏仙禅師の隨行長に任ぜられる。(5年間)
昭和40年(1965)12月 70歳 札幌、中央寺の住職となる。(10年間)
縁無ければ力(つと)む
幸作福田衣下身 幸に福田衣下の身となって
乾坤嬴得一閑人 乾坤嬴(か)ち得たり一閑人
有縁即住無縁去 縁有れば則ち住し縁無ければ去る
一任清風送白雲 一任す清風の白雲を送るに
これは有名な大智禅師の偈であります。
私は七十一歳(70歳)の時、北海道の中央寺へ転住いたす事になりました。
その時、この偈の転句を借りまして、
「有縁即住無縁去 七十一齢雲水徒」
と、自吟してみました。
故熊沢禅師に、檀家総代と共に就任の挨拶にまいりました時、私だけお呼び止めになり、何処で見られたのか、私の句を揶揄(やゆ)して、
「縁有れば則ち住し、縁無ければ去る、とはどうだ。」
と尋ねられました。
「どうですって、それはその通りでございます。縁有ればあちらに行きます。縁無ければ帰ってまいります。」
「縁有れば則ち住す、これは当たり前だ。次の縁無ければ去る、これはいけない。」
「縁無ければ去る、ではなく、縁が無くともとどまるのですか。」
「縁無ければ去る、ではなく、縁無ければ力(つと)むだ。」
努力の力です。力という字を『つとむ』と読みます。たった一言でうまいことをいわれました。
禅師から見れば私は、まだ小僧の様なもので、
「よくわかりました。」
と、下がった事がありました。
去来にとらわれて、縁ばかりにしたがっているのは、雲水ではありません。
虚子の句に、
寒風を衝(つ)いて行くよりほかなし
というのがあります。
去るも、来たるも、とどまるも、無心の精進であります。
精進しながら縁にまかせておく、力(つと)むというのは精進、坐禅のことです。
坐禅というのは無心、無我です。
~本山報恩攝心中垂示~ 「好日好時」より
中央寺住職就任の一偈
曷計田中息守株。 曷んぞ計らんや田中に株を守ることを息め。
随風北海転浮瓠。 風に随て北海、浮瓠を転ず。
有縁即住無縁去。 縁有れば即ち住し縁無ければ去る
七十再参行脚途。 七十再び参ず行脚の途。
(秦慧玉老師は田中寺より北海道中央寺住職に転住)
同年、12月15日 「普勧坐禅儀講話」を著し、曹洞宗宗務庁より発行する
昭和41年(1966)5月14日 札幌、中央寺で慶弔会
前住職福井天章祖山副貫首老師・本葬(本山葬、秉炬師熊沢泰禅禅師)。
新住職秦慧玉師・晋山上堂。
尚、祖山後堂・宮崎奕保師が道旧疏を読まれた。
昭和43年(1968)2月20日 73歳
大本山永平寺顧問に就任する。
昭和45年(1970)1月 75歳 インド仏蹟を巡礼し、ガンジー首相と会見。
「伽耶破暁登靈鷲。峰頂高唱壽量經。熱涙滂沱難制處。東方輝々出金瓶。」
昭和45年(1970)1月19日 75歳 「秦慧昭禪師伝」を編著し、田中寺、大法輪閣より発行する。
昭和46年(1971)6月 76歳
旭川市大休寺授戒會、戒師随行長
昭和47年(1972)7月 77歳 日本仏教徒代表として、アジア諸國を親善訪問。
昭和48年(1973)8月24日~9月13日 78歳 フィンランド・ルーテル教会創立百年記念式典並びにヘルシンキ大学・西独ハイデルベルク大学に仏書贈呈団代表として巡錫し、ローマ法王と会見する。
昭和49年(1974)4月18日 79歳 大本山永平寺御直末会会長に就任する。
『春山夜月』于良史
春山多勝事 賞翫夜忘帰
掬水月在手 弄花香満衣
興来無遠近 欲去惜芳菲
南望鳴鐘処 楼台深翠微
昭和50年(1975)5月9日 80歳 永平寺副貫首に当選する。
同年、6月26日 「随想百話 渡水看花」を著し、後楽出版株式会社より発行する。
この「渡水看花」は誠に失礼ながら、本文中の各年月日、又各年齢等に間違いが多い。
(参考)
「尋胡隱君」高啓 胡隠君を尋ぬ 高啓
渡水復渡水 水を渡り、復た水を渡り
看花還看花 花を看、還た花を看る
春風江上路 春風、江上の路
不覚到君家 覚えず、君が家に到る
昭和51年(1976)4月 81歳 永平寺七十六世貫首に就任する。
同年8月、「慈眼福海禅師」を勅賜される。
(この禅師号は観音経の中の「慈眼視衆生 福聚海無量」より採られた。)
同年10月20日 大本山永平寺晋山祝国開堂を厳修する。
昭和52年(1977)1月 82歳 皇居歌会始に仏教界を代表して出席する。
昭和52年(1977)3月3日
NHK特集・大型特集番組「永平寺」が放映された。
1月20日より2月接心前までを収録した、雪の永平寺修業僧の生活を中心に禅の世界と、その他、冬の日本海の自然風景などが放映。
後、NHK特集「永平寺」は放送番組の国際コンクールの第29回イタリア賞ドキュメンタリー部門でグランプリ賞を獲得した。
同年3月6日 NHKテレビ「宗教の時間」で『普勧坐禅儀』について、秦慧玉禅師と奈良康明駒澤大学教授との対談が放映された。
同年3月、北村西望氏より坐像を造って戴く。
昭和52年(1977)5月26日
比叡山横川、道元禅師得度霊跡供養碑、開眼法要。
昭和52年(1977)8月25日 「禅 ZEN 」講談社より発行。
この中で、「禅の心」と題して、[対談] 秦慧玉+瀬戸内寂聴-「はじまり」を知ることについて-掲載。
昭和52年(1977)11月15日~17日
沖縄浦添市及び万座毛にて、沖縄戦二十三回忌大法要御親修。
昭和53年(1979)12月1日 83歳
「生活の中の禅」(昭和52年8月、稽古館にて講話)を財団法人稽古館・青森県信用組合より発行する。
為 大高東京医大学長「只管打坐」永平玉八十三叟書 (参考1)
昭和54年(1979)4月吉祥日 84歳
「永平二世 光明蔵三昧」を永平寺不老閣より刊行する。
昭和54年(1979)7月15日
永平寺東京別院にて、永平寺七十五世・山田霊林禅師、密葬秉炬。
昭和54年(1979)8月20日
津田さち子著「永平寺への道」(大本山永平寺祖山傘松会:発行)に題字、巻頭偈を揮毫する。
「西來祖道我東傳 釣月耕雲慕古風 世俗紅塵飛不到 深山雪夜草庵中 高祖大師聖偈」
昭和54年(1979)10月5日
京都市、詩仙堂丈山寺、開眼法要御親修。
(参考)詩仙堂丈山寺
昭和54年(1979)10月10日
大本山總持寺前貫首・岩本勝俊禅師、本葬秉炬。
昭和54年(1979)11月23日
ハワイ・北米、二祖国師七百回大遠忌予修法要のため、出発する。
同年12月10日、ニューヨーク、ワシントンの寺院、センターを巡教しカナダを経由して帰国する。
昭和55年(1980)85歳
同年1月25日 全日本仏教会会長就任。
昭和55年(1980)85歳
4月23日より5月13日までの21日間二祖国師七百回大遠忌法要を挙行。
昭和55年(1980)5月13日
永平寺二祖国師七百回大遠忌正當法要御親修。
この折、高松宮殿下、同妃殿下は永平寺に拝登し焼香される。
暁には不審と唱え、夜には珍重と。
五十の星霜、一孝心。
七百の忌辰、奈事をか修す。
光明三昧、古来今。
昭和55年(1980)10月 皇太子御夫妻を永平寺にてご案内する。
同年11月、中国天童寺にて「日本道元禪師得法霊石碑」除幕式を行う。
昭和56年(1981)2月21日 86歳
インド祇園精舎の梵鐘撞初式、インド、ネパール仏蹟巡拝。
同年2月24日、ローマ法王パウロ二世来日の折、宗教界を代表して会見する。
同年2月27日、東京別院にて大内青圃氏本葬秉炬。
同年6月12日、長野市信金ホールにて講演。
昭和57年(1982)3月21日 87歳
永平寺にて中国仏教会会長・趙僕初夫妻を迎え歓談す。
昭和57年(1982)9月1日 ローマ法王庁にてパウロ二世を表敬訪問。
同年9月3日~4日 フランス禅道尼苑にて開教十五周年記念法要を御親修す。
さらに弟子丸泰仙師追悼法要をも厳修す。
「文殊と普賢」
・・・私の友人市原豊太氏より揮毫の依頼を受け、その希望で「侍多千億佛」と一行を書きました。市原氏はこれを表装して床に掛けておられたそうですが、ある時、お友達がその軸を見て是非譲って下さいというのでお渡ししたそうです。
そこで又、代わりに一軸をお願いに来られましたが、その時に、お友達についてお伺いしました。
その方はいま、福井県敦賀市に建設されることになっている原子力発電所に「もんじゅ」「ふげん」と命名された方です。清成迪博士と申します。
侍多千億佛とは『観音経』の偈、最初の言葉ですが、この方が新型原子炉の名称を「文殊」「普賢」とされたとお聞きして感激しました。・・・
これを命名された方は、「侍多千億佛」(千億も多くの佛に侍す)という誓願で科学との調和を理念とされたことは勿論、次にある文句、「発大清浄願」(大清浄の願いを発す)という大乗菩薩道の誓願もお持ちであったことが伺われます。
たまたま、私の一軸が原子炉の文殊・普賢の御名を撰ばれた方によって大切に護持されているということに、深く感謝致した次第です。・・・
(「好日好時」70~71頁より)
昭和58年(1983)3月17日 88歳 清水寺貫主(北法相宗管長)大西良慶和上の本葬の秉炬導師を勤める。
下記「大西良慶和上(清水寺)との交流」参照
昭和59年(1984)年頭 89歳
「無事」
「昭和五十九年の年頭に当たりまして、皆様方の無事息災をお祈りいたします。
私は昨年、高木前国鉄総裁の希望で『無事』という字を書きまして、それが東京駅長室に掲げられてあります。『好事も無きに如(し)かず』という禅語があります。簡単に言えば、よい事もない方がいいということです。よい事というと、逆に今度は悪い事と、対立した言葉です。好きと言えば嫌いということにになる。無というと有に対するし、そういう有に対する無ではない。つまり障壁や、垣根をすっかり取ってしまったところを『無事』というのです。無事は消極的な意味ではありません。事件が無いということではなく、もっと大きく、心を大きくというか、何のわだかまりもなく無心になる。より積極的というか、何をやっても差しつかえのないだけの境地になろうとする事であります。無事であればよいというだけなら、事件を起こさないように、ただじっとして動かなければいい。しかし、それでは進歩がありません。もう一つ踏み越えて、次の段階を抜けるというふうにいきたいものです。(後述略)」
(「好日好時」103~104頁より)
(参考)
「浦高の生徒」 弁護士・前国鉄総裁 高木文雄
「私が秦先生の教えを受けたのは、旧制浦和高校の生徒のときである。昭和十二年入校当時、私にとって秦先生は『漢文の先生』であった。(中略)・・・先日、東京駅長室のため「無事」の扁額を頂いた。また機会を得て「無事」の真意を承った。「無事」こそ禅の奥義である、東洋思想の根本だ、との教えに改めて心を開かれることであった。・・・」(「好日好時」225、227頁より)
昭和59年(1984)2月4日 89歳
福井県民会館ホールにて「永平の春」と題してNHK講話。
昭和59年(1984)3月18日 東京三井記念病院に入院す。
昭和59年(1984)4月2日 東京三井記念病院より退院す。
昭和59年(1984)5月
「大本山永平寺道元禅師御一代記絵巻」・「大本山總持寺瑩山禅師御一代記絵巻」が社会福祉法人天真会より発行された。
その「大本山永平寺道元禅師御一代記絵巻」の巻頭に秦慧玉禅師は「只管打坐」の書と共に「法益を頒つ浄行を讃えて」の文を寄せている。
「法益を頒つ浄行を讃えて」 秦慧玉
曹洞宗の高祖・大本山永平寺の開祖道元禅師ほど、釈尊の説かれた正しい佛法を修証された方はありません。
禅師の主著『正法眼藏』の「行持の巻」には「慈父大師、釈迦牟尼」と尊称して慕わられています。そして「人天の閑供養を辞せず、外道の訕謗を忍辱す」──世の人の招きは決して拒むことなく正法を説きあかし、また間違った連中が、どんなにそしり非難しようとも、堪え忍んで正しい道を行ずるよう──つとめ励まれた、あとかたを讃えられ、自らも一生涯、釈尊にならって生きられました。
かくして、インドから中国に渡られた達磨大師が「吾本此の土に来り、法を伝え迷情を救う」と念願された道は、代々の祖師たちによって綿々と受けつがれ、道元禅師が「先師天童古佛」と尊称された、天童如浄禅師によって「只管打坐」の佛法を結成されました。
この「只管打坐」の佛法を正しく伝え、日本に花を開かせた方こそ道元禅師であります。
「ひたすら坐禅する」すがたが佛の相であり、み佛にもよほされて坐禅に打ち込むことこそ佛法の真髄であるとうけがうとき、貪名愛利に走ることなく、人間が共生きを喜びあい、そこに永遠に平和な世界が実現するという信念の下に、永平寺を開創されました。
このたび『御一代記絵巻』を上梓された浄行を讃え、道元・瑩山両禅師の禅道に精進し、広く法益を頒ちあうよう念じてやみません。 大本山永平寺 不老閣主
昭和59年(1984)6月10日 89歳 「好日好時」を著し、仏教情報センターより発行する。
昭和59年(1984)9月23日~29日 永平寺御征忌(最後の御親修となる。)
昭和59年(1984)10月2日 再入院。 (以後の御親香は御代香となる。)
昭和60年(1985)1月3日
東京三井記念病院にて遷化し、田中寺に移す。世壽九十歳。
1月8日、東京別院にて密葬。(秉炬師、永平寺丹羽廉芳貫首)
4月17日、永平寺本葬。(秉炬師、総持寺紫雲台梅田信隆猊下)
秦禅師様と私の出会い
(北海道・北漸寺住職 鶴原憲鳳)
秦禅師様に初めてお目にかかり、お教えをいただいたのは、私が昭和十六年四月、駒澤大学に入学を許され、そして相撲部(当時は角道部)に在籍していた時です。
(中略)
その当時禅師様は、旧制浦和高等学校(現埼玉大学)と駒澤大学の教授にて、両校に教鞭をとっておられました。
その頃から好角家として禅師様はよく相撲道場に歩を運ばれ、土俵の稽古を熱心にご覧になりました。(中略)
禅師様にはその後、大本山永平寺貫首熊沢禅師様のお召しにより本山後堂としてご上山遊ばされ、親しく雲衲のご指導に当たっておられます時、私もご本山に焼香師を拝命上山の砌(みぎり)、後堂寮にお招きを戴き、全く久方ぶりに拝顔の機を得て懐かしいお話をお聞かせ下さいました。
本当に感激で一杯でした。
その後、また、絶えて久しくご無沙汰失礼を重ねている折しも、昭和四十年十一月二十日、前永平寺副貫首中央寺住職福井天章老師の突然のご遷化にて、道内宗門寺院の失望落胆はその極に達し、心の中に大きな風穴があいたような虚脱感を禁じ得ざりし時、福井老師のご遺請により中央寺七世として後董をご継承遊ばされましたことは、あたかも親を失える者の慈父に遇えるが如く、恩師の懐に入れるが如き有難さと、感激にて言う言葉もありませんでした。
秦禅師様中央寺御住山十年の歳月は、私にとりましては、駒大時代の師弟の間柄のような日々でした。
その間、禅師様は昭和四十二年には福井老師の三回忌を卜して報恩大授戒会をご修行なされ、次いで六階建てのエレベーター付き永照殿を建立、続いて山門の建築、そして三階造りの大庫院を新築なされるなど、大事業の連続でした。
一方、禅師様はことさらに漢詩に弱い我々のために「詩偈の会」をお開き下され、毎月十一日午後六時より聴講者会員三十名のためにご親切なるご講義を賜りましたことは感謝の他なく、誠にもったいないことでした。
禅師様の相撲愛好家と相撲通は前述の通りであり、いまさらNHK北出アナウンサーの紹介を俟(ま)つまでもなく、天下周知のところであります。
駒大相撲部よりプロ入り第一号の尾形こと「天ノ山」の名付け親であり、また彼の化粧廻しの白地に「無」の大文字は、禅師様のご親筆であります。
事程(ことほど)左様に相撲についてのご見識は、まさに専門家以上であり、時折、東京本場所中、砂カブリにてご観戦中の禅師様のお顔を、テレビで拝見することもしばしばであります。
駒大相撲部の北海道合宿に際しては、中央寺様を合宿所に開放下され、そして練習にも同行頂いて叱声激励を賜わり、時に物心両面わたる莫大なご援助にあずかりしことは、毎度のことですがお礼の詞もありません。(中略)
禅師様には、今年米寿のお年をお迎え遊ばされました。
今や日本宗教界の第一人者としてのお立場にて、ご活躍をなされつつあります。
冀(こいねがわ)くは聖胎堅固福寿無量ならんことを祈念申し上げます。
~「好日好時」より~
大西良慶和上(清水寺)との交流
今年、数え百九歳を迎えられた大西良慶和上には、その二月十五日、奇しくも仏涅槃の仏忌に寂を示された。
まことに痛歎の至りにたえず、謹みて衷心より哀悼の誠をささげます。
顧れば、昭和五十一年四月二十二日、百二歳の老和上から私は左の信書を頂いた。
「謹啓 過日は御多用の中 遠路御参詣下され拝芝を得難有存上げます 御土産迄いただき恐入ります 何の用意も無之申訳御座いませぬ 目出度 御晋山 乍蔭御祝申上ます 拙作別紙したため申し上げます 御笑覧下されば光栄で御座います 益々御健勝御化導 御願申上げます 長慶合掌
秦老師様 尊台下」
右は奉書の巻紙に毛筆で書かれ、文中「拙作」とあるのは、左の七言絶句である。
欽敬古関衣鉢全 欽敬す古関、衣鉢全し
老師留杖徳無辺 老師杖を留むれば、徳無辺
遠近此日歓声涌 遠近此の日、歓声涌く
紫気薫風新緑天 紫気薫風、新緑の天
恭祝晋座慧玉老師 祖山良慶百二 [印]
右の賀詞も玉版箋に墨痕流麗。とても百二歳の御染筆とは思えない。
全く勿体なき極み、うたた感涙に咽んだ。
尊い書翰と賀詞とは根本彰徳堂に表装を頼んで二重箱に納めたが、彰徳堂では京都までお伺いして、忝くも「御晋山賀詞」との御箱書も頂いて来た。
わが不老閣の重宝である。
実は、前記信書にあるように、初相見の時、ご日常の召し上がりものなども伺っていたので、早速永平寺の典座寮に、手打うどんとゴマ豆腐を造らせ、之を使僧に持たせて、御礼に清水に登らせた。
老和上は殊の外に喜ばれて、使僧に「苦楽有心」の色紙を下さった。
私はその色紙も表装して、「私が死んだら、おまえさんにもどす」といって取り上げた。
これも私が今は珍重している。
それから六年後の春、ご親侍の松本老師から、突然『良慶和上茶寿紀念集』の題字を書けとのご下命であった。
これは私一代の光栄であるが、私には勿体ないからと辞退した。
しかし聴き入れられず、ついに悪筆を弄した。
(中略)
ところが、ここに摩訶不思議の事が起こった。
「大法輪」からの依頼で、止むなくこの原稿を書きつづけていた一昨夜、突如、清水寺からの電話だという。
聞いてわが耳を疑った。
それは来る三月十七日、音羽山本堂において修行せられる老和上本葬の大導師を、不肖に依嘱するとのことである。
全くもって寝耳に水で、本当に途方にくれた。
全日本の大仏教界には綺羅星のごとく、あまた高徳長老の方が在します。
不肖などの出る幕にはあらず、と深く反省自重して、再三強く辞退申し上げたが、許容せられず、苦心苦慮の末、不思議にもこれは僧侶一代の大冥加である、一番勇猛心を奮起してお引き受けするのが本当だという、自内証のような声がどこからか来た。
かくて薄徳菲才をも顧みず、ここに僭越至極ながら、この大役をお請けすることとなった。
(後略)
~「好日好時」より~
大西良慶(おおにし りょうけい)
明治8年(1875)12月21日、奈良に生まれる。
明治30年、法相宗勧学院卒業後、興福寺住職となる。
明治38年、法相宗管長に就任する。
大正3年、40歳で清水寺に住職する。
昭和40年、91歳で北法相宗を設立する。
昭和58年(1983)2月15日、108歳で遷化する。(満107歳)
北法相宗初代管長、清水寺貫主、同和園(養老園)理事長、日中友好仏教協会設立。
(参考)
「ゆっくりしいや」
百年の人生を語る
清水寺貫主・大西良慶 著
(参考1)
秦慧玉先生の教えに導かれて
東京医科大学教授・前学長 大高裕一
秦慧玉先生に初めてお目にかかったのは、昭和十年に私が旧制浦和高校に入学した頃のことである。
先生は旧制浦和高校の専任の教授をしておられ、漢文を教えてくださった。
したがって、先生がその後、永平寺の貫首となられ、禅師の称号をえられてからも、私にとっては、先生は昔の学生時代の恩師であり、先生とお呼びして、お慕い申し上げているのである。
私は、東大医学部を卒業してから、基礎医学の一つである病理学を専攻することとなり、東大医学部病理学教室に八年間ほどいてから、東京医科大学の教授として赴任したのである。
昭和四十八年九月に、私は東京医科大学学長に就任した。五十五歳の時であった。
同年の七月には、学長になることが内定していたので、先ずもって、日頃敬慕してやまない道元禅師の御真前において、学長就任にあたっての心の誓いをたてておきたいと思い、福井の永平寺に参詣したのであった。
東京に戻るとすぐに、田中寺におられた秦先生に思いきって書面を差し上げ、浦和高校卒業以来のご無沙汰をお詫びいたし、お目にかかってお教えをいただきたいとお願い申し上げたのである。
先生は暖かい御心のこもったご返事を早速にくださり、これは仏縁であるとたいへんに喜ばれた。そうして、先生が定期的になされている禅の漢詩のご講義の会にも入れていただき、また、時折、田中寺でお目にかかり、お教えをうけたまわることもできることになったのである。この間に、先生から、私は沢山の色紙と書幅を書いていただいた。
私の東京医科大学の学長の任期は、昭和五十七年八月まで、十年間にわたったが、大学をよりよく改革しようという理想をもって職責を果たすためには、相当の勇気と忍耐を必要とした。この間、絶えず励ましてくださったのは秦慧玉先生である。学長室には絶えず、先生の色紙・書が置かれていて、それらに書かれている先生のお言葉に、私の心は常に支えられていた。
私が、なんとか学長という重責を果たし得たのは、秦慧玉先生に導いていただいたおかげである。そして、このご恩の深さにははかり知れないものがある。私は、家では毎日、釈迦如来の像に向かっての読経と、坐禅を続けて、修行のかてとしている。これも秦慧玉先生のご恩のご感化である。
私も医学にたずさわる一人として、先生のご建康のご相談にあずかることがある。
秦先生の米寿を心からお祝い申し上げるとともに、御身を御大切になされて、今後一層のご長寿を心から祈念いたす次第である。
(「好日好時」231~233頁より)
「秦慧玉禅師法語録」 秦慧玉禅師法語録刊行会編 寶昌寺・発行
「永平七十六世秦慧玉禪師法語録補遺」 語録刊行会代表秦慧孝 寶昌寺・発行
「秦慧昭禪師伝」 秦慧玉 編著 田中寺、大法輪閣・発行
「普勧坐禅儀講話」 秦慧玉 著 曹洞宗宗務庁・発行
「随想百話 渡水看花」 秦慧玉 著 後楽出版株式会社・発行
「好日好時」 秦慧玉 著 仏教情報センター・発行
「生活の中の禅」 永平慧玉 述 財団法人稽古館・発行