永平寺七十七世 丹羽廉芳禅師
(世称)
丹羽廉芳(にわ れんぽう)
(道号・法諱)
瑞岳廉芳(ずいがく れんぽう)
(禅師号)
慈光圓海禅師
(じこうえんかいぜんじ)
(生誕)
明治38年(1905)2月23日
(示寂)
平成5年(1993)9月7日
(世壽)
89歳
(別号)
老梅 雪梅 梅庵
(特記)
梅花流正伝師範
丹羽廉芳禅師の書
「大道無門」
「無門関」「頌曰 大道無門 千差有路 透得此關 乾坤獨歩」
明治38年(1905)2月23日
静岡県君沢郡瓜生野村の(父)塩谷加藤太、(母))むらの十人の子供の六番目に生まれる。幼名は「廉(レン)」。
明治45年(1912)(1月1日-7月30日)
大正元年(1912)(7月30日-12月31日)
大正5年(1916)4月8日 12歳
叔父の静岡洞慶院の丹羽佛庵老師のもとへ行き、出家する。
十二歳で洞慶院に
生家の菩提寺は瓜生野の昌徳院です。
ここの住職は、後に鶴見の大本山總持寺の監院を長く勤め、曹洞宗の宗務総長をも勤められた鏡島宗純師というお方でした。
この方のご長男に宗乗の第一人者として名高い文学博士の(鏡島)元隆師があります。
私の十二歳の時、おじいさんの七回忌を昌徳院の鏡島宗純師と、やがて私の師匠になる丹羽仏庵の二人が導師となって法要を勤めました。
お師匠さまの仏庵は、喜四郎じいさんの次男、つまり父の加藤太の次の弟で、庵原郡袖師村西久保、今の清水市龍雲院の丹羽仏鑑師のもとで出家修行し、静岡の洞慶院の住職をしていました。
法事のさい、お師匠さまが着ていた紫の衣の色がすばらしく、魅せられて自分もむしょうに衣をつけてみたくなりました。
「俺も坊さんになりてえ」
その晩、いろり端に親戚のみんなが集まっている時に、思いきって言ってみました。
「そうか。ちょうど子供が大勢あるから、廉、それじゃ叔父さんのお寺のお世話になるか」と父は賛成しました。
すると、母の『むら』が、
「この子は小学校に入る前から、お蚕さんのコシリ換えや、うどんの練り上げ、それに米つき小屋まで米を運ぶのを手伝ってくれる。十人も子供がいるが、この子だけはどうしても離したくない」
と反対しました。
それでも親戚の人たちの説得で、母もしぶしぶ承知しました。
師匠の仏庵は
「ご開山道元禅師さまがご出家されたのは十四歳のこと、ありがたいことだ」
と大いに喜んでいる。私も幼心に
「ご開山さまと同じ頃に坊さんになれる」
ということで感激したのを昨日のことのように覚えています。
その日のうちに、五番行李に荷物をまとめて、次の日の午後にはもう静岡へ向かいました。大正五年、小学校六年生の時の四月八日のことでした。
~「梅華開-わが半生」より~
僧名の由来
大正六年(大正七年?)の九月八日のことでした。
得度のさい、師匠の仏庵が護法の大黒柱といわれた永平寺六十七世北野元峰禅師に
「禅師さま、こんな小僧をもらったんだけど、名前をひとつつけてください」
ということでお願いしました。
「そうか、廉か、いい名前だ。でも、『廉』の一字じゃ坊さんにはちと足りねえ。それじゃ俺の『峰』の字をくれてやろう。でも俺の『峰』じゃ、ちいっと角がありすぎてごつごつした小僧になるとこまるので『芳しい』という字をつけて俺の音をくれるから、それで『芳ぽう』と読ませろ」
というようなことで「廉芳れんぽう」となったわけです。
号は「瑞岳ずいがく」、めでたいという意味の言葉です。
~「梅華開-わが半生」より~
大正8年(1919) 15歳 静岡県韮山中学校に入学。
大正13年(1924) 20歳 旧制静岡高等学校に入学。
大正15年(1926)9月28日 22歳
丹羽佛庵老師の室に入って伝法。
大正15年(1926)(1月1日-12月25日)
昭和元年(1926)(12月25日-12月31日)
昭和2年(1927) 23歳
東京帝国大学文学部印度哲学科に入学。
入学後、東京新宿角筈新町の耕雲軒の住職となる。
昭和5年(1930)3月 26歳
東京帝国大学を卒業。卒業後、洞慶院に戻り、監寺を勤める。
昭和6年(1931)4月 27歳
衛藤即応師の推薦により、京都安泰寺紫竹林学堂に入り、大谷大学研究科に通い、天台学を学ぶ。
昭和7年(1932)10月 28歳 永平寺秋安居に入る。
昭和8年(1933)10月 29歳 永平寺本山僧堂修了。
昭和9年(1934)3月3日 30歳 静岡県清水市庵原の一乗寺に首先住職。
昭和11年(1936)4月 32歳 洞慶院専門僧堂開単と共に宗乗担当講師を拝命。
昭和14年(1939)12月 35歳 師匠の丹羽の籍に入り、丹羽の姓となる。
丹羽の姓
私が塩谷姓から師匠の跡をついで、丹羽に改姓したのは昭和十四年十二月のことでした。
弟弟子(おとうとでし)の慧宗(えしゅう)が戦争に出かける時に「戦死したら丹羽姓になって帰ってきたい」といいだしました。
師匠は「お前はしまいのほうの弟子だに、お前を一人だけ丹羽に入れておくわけにはいかない。まず廉を籍に入れて、その廉の籍に慧宗を入れるから」ということで入籍しました。慧宗は姓の上では、師匠の孫にあたるわけです。
師匠にしてみれば、年をとっているし、慧宗が無事帰ってきても、自分はもはや生きていないかもしれない、その時には私が将来の面倒をみるようにという老婆心からであったと思います。
でも、慧宗は生きてもどれなかった。
意味の無い戦争の犠牲者になってしまいいました。
~「梅華開-わが半生」より~
昭和16年(1941)37歳 一乗寺で結制修行
昭和16年(1941)12月8日 日米開戦(真珠湾攻撃)
学童疎開
一乗寺を会場にして、県衛生課主催の保健婦養成講習会を毎年開催いたしました。
昭和十九年に入ると、その保健婦講習会開催中に、百八人の学童疎開の子がやってきました。
疎開の子は本堂に、引率の先生は毘沙門堂に、保健婦さんは庫裡の一階にというように分宿して暮らしました。
一乗寺にきた学童疎開の子は東京渋谷の加計塚(かけづか)小学校の六年生で、隣村の梅谷の真珠院と大内の保蟹寺に五年生が、西久保の龍雲院と真如寺と峰本院に四年生が疎開しました。
故郷を想って涙ぐむ子供たちの心を、お経にとけこませて柔(和)らげてやろうと想いつき、全員で朝晩のお勤めをすることにしたのは一週間ほどしてからでした。
みんなに、檀信徒勤行聖典を一冊づつ買い与えました。
本尊さまにむかって、私を中心に百八人が左右に並び、太鼓で調子をとりながら「修証義」を毎日一章づつ唱えました。
子供の記憶力はすごいもので、一月もしないうちにみんなが完全に暗唱してしまいました。
子供たちがきてから二ヶ月後の十月になると、一乗寺の裏山のみかんが色づき、約二千貫余りが実りました。
その年は農業会に一粒も出荷せず、すべて子供たちに食べさせる決心をしました。
庵原の婦人会の人がみんなして持ち寄って荷車でみかんを配りに回りました。
十二月には疎開の面会日があり、訪ねてきた親御さんみんなに、そのみかんを、お土産にしてもって帰ってもらいました。
それ以来三十五年になりますが、毎年みかんが色づく頃になると、庵原を想い出すという意味で「想庵会」と名づけて疎開の同窓会を続けています。
子供たちは、昭和二十年三月の卒業と同時に東京にもどりました。
しかし、空襲で丸焼けになったこともあり、今龍雲院の住職をしている大塚尚樹はみんなに推薦されたので否応なしに代表で弟子入り、庵原中学に通うことになりました。
私の弟子は三十名を超えましたが、大塚尚樹は特に思い出の深い弟子の一人です。
~「梅華開-わが半生」より抜粋~
昭和20年(1945)8月15日 太平洋戦争終結(ポツダム宣言受諾、敗戦)
昭和24年(1949)4月 45歳 静岡県清水市西久保の龍雲院に住職。
昭和27年(1952)3月10日 48歳 曹洞宗審事院審事を拝命。
昭和28年(1953)6月10日 49歳 特派布教師を命ぜらる。
昭和30年(1955)11月4日 51歳 静岡県洞慶院に転住する。
昭和35年(1960)6月6日 56歳 永平寺東京別院の監院となる。(18年間)
(この間、東京別院の戦災復興に力を尽くす。)
永平寺東京別院・監院
永平寺東京別院の監院を拝命したのは、昭和三十五年のことでした。
五月に永平寺で梅花流の上級師範研究会が開かれましたので上山いたしました。
熊沢泰禅禅師さまに拝謁にいったところ、「丹羽和尚、監院和尚のところへ寄ってきたか。まだいっていないのなら、先にいってくるように。」というご指示でした。
さっそく佐藤泰舜監院をお訪ねしたところ、「禅師さまと相談して、お前を東京別院の監院に推薦した。」ということでした。
ご好意に感謝しながらも、「なにせ師匠が十八年間も出張所にお勤めし、その間自坊を留守にしていました。今、私が再び留守することになると、檀家総代がどういうか分かりませんので、一度相談してからお返事させていただきます。」 ということでひとまず帰りました。
総代と相談しましたところ、「先代仏庵老師のご意志をつぎ、東京別院を発展させるためにも、是非お行きなさい。」ということでした。
上京の意志を固めたところ、六月六日、盲目の佐藤泰舜監院さまがわざわざおいでくださり、ご要請ということでご辞令をいただきました。
六月二十四日上京、新橋駅まで別院の方々や梅花講の人たちがお迎えにきて下さり、就任式をし、ご本尊さまにご挨拶を致しました。
それから十八年、昭和五十二年まで無事勤めさせていただきました。
~「梅華開-わが半生」より~
昭和40年(1965)8月5日 61歳 梅花講専門委員に委嘱されると同時に、曹洞宗梅花講正伝師範となる。
昭和42年(1967)7月20日
故岸澤惟安老師校譯「永平道元禪師清規」の序を題す。
『永平道元禪師清規 全』-大清規- 岸澤惟安老師校譯
校譯永平清規の序
この度、岸澤惟安老師校譯の「永平道元禪師清規」は發願刊行せられるは、希有の勝縁であるを感じ、その願心に隨喜するものであります。
清規は宗教生活の規範であります。高祖大師最後の御遺教にお示し下されて、
今生壽命此病必覺限。凡人之壽命必有限、(中略)彼此加醫寮、雖然全不平癒。此又不加驚。但今生於如來佛法、雖有未明知之千萬、猶悦於佛法一切不發邪見、正見依正法取正信。其大意者只如日來之所談、一切無異、可被存其趣也云云。
とあります。「今生、如來の佛法に於いて未だ明らめ知らざるの千萬ありと雖も、猶お佛法に於いて一切邪見を發さず、正に是れ正法に依つて正信を取りしことを悦ぶ」という宗教生活の極致を仰せられておりますが、その正信の生活とは、「日來の所談の如し、一切異ること無し」の清規御實践のご生活であることが肯けるのであります。如來の佛法に於いて未だ明らめ知らざるの千萬あり、と申されます高祖様の御慈慮を拜する時、しつかりとわが身心を調えて清規を辨え、祖道を實践しなければならぬと思うのであります。
高祖の宗旨は、祖師の行履を行履とする宗教體験において、至純なる信仰が確立し、正しい生活が行われ、法悦の世界が現成されるにあります。このゆえに學道用心集には、
佛道ヲ修行スル者ハ先ヅ須ク佛道ヲ信ズベシ。佛道ヲ信ズル者ハ自己本道中ニ在ツテ迷惑ナク妄想ナク顛倒ナク増減無ク悞謬無キコトヲ信ズベシ
とあります。自己とは佛道のことである。ここにおいて自己を形づくつている身心をつかまえてみると、すなはち迷なく妄想なく顛倒なく増減なく悞謬なく、佛道中に圓満であることに氣付くのである。人々各自が自己の身心は是くの如く圓満であることを信ずるのが佛道に入るはじめであります。これが正法に依つて正信を取るの生活であり、正信に依つて正法を開演する菩提心發の生活の根本であります。然して「威儀卽佛法、作法是宗旨」が出家在家にかかわらず人間に生きる宗教としての、生活標語たり得る所以でありましよう。「高祖道は大清規につきる」という老古佛の御言葉は正に至言であります。
ここに佛道本基の遵守をねがい、ひたすら道心の涵養に精進せる一介の托鉢僧、珠鳳、俊峯兩尼和尚が、老古佛の至言に引發せられて、老古佛に藏身し、報恩謝德もつて、佛法の生命を江湖に施すの壯擧は、實に古來の辨道力のたまものと感得せられ、まことに有り難いことであります。
「自己の面目は面目にあらず、如來の面目を面授」して行持することは、大清規に依りて佛道の要機を保任し、驀直に如來の生命を相續してゆくことであります。ここに初心晩學、尊年耆宿は勿論、廣く一般社會人に推薦し、法寶の耀き彌増さんことを祈念して序とする次第であります。
昭和四十二年七月二十日
東都永平寺別院にて 丹羽廉芳拜題
昭和48年(1973)8月4日 69歳 権大教正に補任される。
昭和50年(1975) 71歳 日華仏教関係促進会会長。
昭和51年(1976)1月15日 72歳
岸澤惟安著「典座教訓講話」、発行者:丹羽廉芳、発行所:洞慶院
「あとがき」
岸沢惟安老師様が生前、この典座教訓講話を出版せられた後、幾度か御覧になり、御訂正の不備の箇所をすっかり再訂正加筆なされ、俗弟子島谷俊三(静岡大学名誉教授)老梅居士に、「何時かこれを出してくれ」と懇々お頼みになられて、昭和三十年春御遷化になられました。その後、居士の脳裡を離れず、その機会を待って居られた。私も幾度かその居士のお声を聞いていました。それでは何とかして出しましょう。居士はそれから旧仮名使いを綿密に全部新仮名使いに訂正され「先に元脚葛藤集を出版してくれた」京都の大宝印刷にお願いして、いよいよ発刊の間際になって、老梅居士も逝去されてしまいました。御老師様と老梅居士の尊い血の滲んだ労作が煙滅することなく出版されて、典座教訓の真意、極則事を把握し、高祖大師の遠孫として、弄精魂することに通身歓喜せざるにはおれません。大宝さんの献身のお骨折り厚く感謝致します。
昭和五十年十二月 丹羽廉芳 記
昭和51年(1976)6月25日 72歳
永平寺副貫首に当選する。
同年、7月2日 大本山永平寺副貫首に就任する。
「永平広録」
西來祖道我東傳
釣月耕雲慕古風
世俗紅塵飛不到
深山雪夜草庵中
昭和51年(1976)7月25日 72歳
NHKテレビ・宗教の時間「道元の坐禅儀」に出演し、西嶋和夫、田上太秀両氏と対談する。
昭和52年(1977)1月17日 73歳
「みんな如来様だよ」丹羽廉芳著 後楽出版社:発行(非売品)
「みんな如来様だよ」丹羽廉芳著
まえがき
私は昭和九年三月、二十八歳の時、清水市庵原の一乗寺へ転住して、二十四年まで十九年の間、住職としてお勤めさせていただきました。戦災のため全焼した法類の寺、清水市西久保の龍雲寺へ、法叔の田中順孝師がその春遷化、法嗣の章司君が沖縄で戦死されましたので、再建のために、また転住しました。兼務してから十年になります。
昭和三十年の秋、師匠の跡を承けて静岡市鳥羽の洞慶院に晋住しました。早いもので明年は師匠の二十三回忌を迎えます。
洞慶院へ入ってから村の婦人会に呼びかけて、先住地庵原一乗寺の婦人会にまねて、毎月満月の晩に集まってもらって一席ずつ法話をすることになりました。正しい明るい浄らかな信仰に生きていただきたいためであります。
(中略-その法話録音テープを起こして小冊子とする)
私の出生地は伊豆の修善寺町瓜生野であります。十二歳の時に出家の志を立てて静岡市鳥羽の洞慶院丹羽仏庵師のもとへ弟子入りしました。この静岡県は言語学の上から大切な土地であり、日本国中の言語が北から下り、南から上ってここで珍しい方言(なまりことば)となって現在に至っておる日本第一の方言の豊かな国であることを、私は旧制静岡高等学校で国語を教授せられた方言学の大家、東条操先生からお聴きしております。その方言まるだしの私の法話です。婦人会の皆さんもその方言まじりのお話しの方が親しく見に沁み込む心地がして喜んでくれます。不知不識の間に無上道が以心伝心してゆく心地がいたします。(後略)
昭和五十一年十一月三十日
大本山永平寺別院長谷寺 於監院寮
副貫首 丹羽廉芳艸
昭和55年(1980)2月23日 76歳
「梅華開-わが半生」を著し、洞慶院より発行する。
ご遠忌にあたり
昭和五十五年は、大本山永平寺の二祖国師孤雲懐弉禅師さまの七百回大遠忌の年にあたります。
前回の六百五十回大遠忌は、昭和五年に厳修されました。
本来は昭和四年が六百五十回忌の年にあたっておりましたが、大庫院、光明蔵、水道の新設および福井電鉄の開通等、本山有史以来の大事業を遂行、工事の遅れのために一年延期されたということです。
今回の大遠忌に際し、本山では大遠忌局を設け顕彰事業をすすめています。
工事関係では、孤雲閣の改修、西廻廊、大浴室、法堂東司の改築工事、山門、仏殿の補修工事。
大会関係では、梅花流奉詠大会が五月二十七、二十八日の両日、福井県立体育館で開かれます。
曹洞宗婦人会大会は九月十一日、尼僧団大会は五月六日にそれぞれ開かれ、曹洞宗青年大会は「身心障害児育成基金勧募」のため全国托鉢行脚を実施することになっています。
さらに、福井県主催の福井文化・産業博覧会の一環として、永平寺秘宝展が四月十九日から六月三十日まで福井県産業会館で開かれます。
出版関係では、桜井秀雄駒沢大教授を中心に「永平寺史」の資料蒐集ならびに刊行、昭和三年六百五十回大遠忌を紀念して発行された村上素道老師著「二祖孤雲懐弉禅師」覆刻等です。
法要部門では、大授戒会が四月二十三日から二十九日まで行われ、大法要期間は四月三十日から五月十三日にわたって、一日六回法要を営み、合計六千人の参拝を予定。
大遠忌正当の日は五月十三日で、法定聚会には高松宮殿下もご出席になられます。
また、永平寺のご開山道元禅師さまがご修行された中国の天童寺景徳禅寺の大修復が、中国政府の手ですすめられています。
永平寺としても改修助成金を送る予定です。
栄ある七百回大遠忌に、祖山の副貫首としてめぐりあえることは、仏弟子として私生涯の喜びとするところです。
この機会に、二祖国師孤雲禅師さまの行持を慕い、あわせて拙い修行のあとをふりかえり、残された人生の戒めとしていくつもりです。
~「梅華開-わが半生」より~
昭和59年(1984)2月 80歳
静岡県田方郡修善寺町、修禅寺へ転住する。
丹羽廉芳老師の書の落款はおよそ下記のような署名だと云える。
「老梅」・・・永平寺副貫首時代の書
「永平廉芳」・・・永平寺貫首時代の書
昭和60年(1985)1月 81歳
永平寺七十七世貫首となる。禅師号「慈光圓海禅師」
昭和61年(1986)1月5日 NHKふるさとネットワーク「中部アングル■85 一木一草みなほとけ 永平寺貫首 丹羽廉芳」が放映される。
番組内容:永平寺の77代貫首になった丹羽大禅師の就任式である晋山祝国開堂での修行僧との禅問答などを織り込みながら曹洞宗800万信徒に仏法を説く新貫主に聞く。
昭和61年(1986)8月 82歳
台湾平和観音奉安開眼を親修する。
同年11月 中国浄慈寺大梵鐘落慶法要を親修し、因みに北京中国仏教協会を表敬訪問する。
此の時の香語集「淨慈寺大梵鐘落慶友好訪中行状紀」は昭和六十二年八月三十日、大本山永平寺侍局より発行された。(注1)
昭和62年、永平寺に国際部を設置する。
昭和62年(1987)1月 83歳
スリランカを訪問し、坐禅堂の地鎮祭を挙げる。
同年7月、イタリア普伝寺、フランス禅道尼苑などヨーロッパを巡錫し、ヨハネ・パウロ2世と会見する。
昭和62年(1987)
梅花流創立35周年記念奉詠大会が日本武道館にて開催される。
昭和63年(1988)3月 84歳
元永平寺不老閣を移設した、鹿児島県始良町、紹隆寺(永平寺出張所)の書院落慶を挙げる。
参考 紹隆寺 (曹洞宗大本山永平寺 鹿児島出張所)
同年3月末 本山受所、永代係、本山事務所にコンピューターを導入、設置することを決定する。
同年5月29日 NHK教育 丹羽廉芳禅師と金光寿郎との対談「こころの時代~宗教・人生~渓声山色これわが師」が放映される。
昭和64年(1989)(1月1日-1月7日)
平成元年(1989)(1月8日-12月31日)
平成1年(1989)1月 85歳
スリランカ、パラマ・ダンマ・チューティアピリヴェナ寺院坐禅堂の落慶式を親修する。(これは丹羽廉芳禅師の一寄進です。)
同年3月、新不老閣、改築落慶する。
平成2年(1990)11月 86歳
中国天童寺、如浄禅師・寂円禅師の建牌開眼法要を親修する。
平成3年(1991)3月1日 87歳
「禅の風」第10号
巻頭対談 大本山永平寺貫首丹羽廉芳・テレビキャスター草柳文恵
平成4年(1992)1月18日 88歳
ハワイ、カウアイ島の禅宗寺にて「世界平和大観音追善供養法要」を営む。
その後、大正寺、大福寺、正法寺等を巡錫して、1月24日帰国する。
同年、2月22日 曹洞宗管長に就任する。
同年4月、同和問題に取り組む宗教教団連帯会議の部落解放基本法制定要求国民運動中央実行委員会会長に就任する。
曹洞宗梅花流の普及に尽力する。
平成5年(1993)9月7日
静岡県洞慶院の隠寮、観梅亭にて遷化す。世壽八十九歳。
同年9月13日 密葬。 秉炬師 宮崎奕保永平寺貫首。
同年11月29日 永平寺本葬。
平成7年(1995)9月7日
「老梅語録」発刊 大本山永平寺
本書は丹羽廉芳禅師が永平寺へ晋住された昭和六十年一月より遷化されるまでの法語十二冊分を収録して全八巻とした。(語録凡例より)
尚、下掲載の老梅語録巻一の禅師写真及び巻八の遺偈は実際の語録表紙には添付されていない。
(注1)
中国杭州、浄慈寺梵鐘除幕式・陳白文(丹羽廉芳禅師)
(原漢文)
恭しく惟れば、梵鐘は此れ、佛器の憲章、二千五百年前、釋尊始めて定むる所。
寶具の冠冤、永劫盡未来際、法戒誰か遵わざらんや。
茲に於いて。
日域十方緇素の布施を勧誘し、自ら深心の念を起こし、進んで黄白を喜捨す。
中華杭州浄慈禪寺に献納し、仍ち前業の禧に依り、永へに比鄰を相ひ誓ふ。
山門、今月嘉辰を卜し、日本曹洞宗大本山永平寺現董廉芳比丘、
海を超え衆を率い、當道場に於いて一拄の香を拈ぜ使め、
以て遺徳を表彰し、上、法乳の鴻恩に報ゆる者なり。
天運浩浩として、梵音殷殷たり。感應通徹して、靈鑑垠り無し。
佛天の神龍、瀛洲に降り、驀直に佛恩を傳ふ。
法界の靈虎、震旦に虓へ、忽地に法身を現ず。
空に透るの大音、無明の長夢を覺破し。耳を穿つの妙響、宿世の迷因を黜斥す。
鷲嶺の祇園に依稀として、天女舞踊す。竺土の梵唄に彷彿として、惡魔湮淪す。
有縁の亡者、極樂の淨土に遊戯す。無縁の存者、有漏の俗塵を脱化す。
朝に菩提の淨心を發し、功を積み徳を累ぬ。
夕に煩惱の苦業を除き、舊を改め新に進む。
衆縁に應ずるに冝しく、驢を渡し馬を渡すの畧彴たり。
諸有に堕せず、殺佛殺祖の儔倫たり。
纒綿たる天童の秀峰、卿雲、終日倚る。
超脱せる曹洞の玄旨、妙偈、平生親しむ。
祖道益々昂揚し、洵に是れ禎瑞たり。
中國逾々隆盛し、歓欣に堪ふる無し。
維時、一九八六年、秋吉日、曹洞宗大本山永平寺現董廉芳比丘、謹んで白ふす。
(「浄慈寺大梵鐘落慶友好訪中行状紀」18~24頁より)
梅花流詠讃歌の創設
昭和二十七年にはご開山道元禅師さまの七百回御遠忌が予定されていました。
師匠の(丹羽)仏庵は、この御遠忌を長い戦争で荒廃した人心を癒し、併せて宗門の復興発展を図る絶好の機会であるととらえていました。
当時、曹洞宗には宗門としての詠讃歌がありませんでした。
そこで、昭和二十五年の小松原国乗宗務総長の時でしたが、師匠は宗務庁にご詠歌の創設を再三にわたり進言しました。
一方、「古径荘」から紹介された、金剛流から分かれた密厳(みつごん)流の長岡紹臣さんを講師に招いて、密厳(みつごん)流の研究会を始めることになりました。
宗務庁がご詠歌の創設に躊躇しているのをみると、師匠は北村大栄師の「高祖大師御一代記」の和讚をもとに、出来上がった作詞に自ら手を加えて「降誕」「得道」「説法」「涅槃」の四段にわけ、長岡紹臣さんの師匠にあたる小河原玄光師に作曲を委嘱し、この年の十二月完成をみました。
翌、二十六年の一月から、師匠をはじめ私ども静岡第一宗務所の大賀亮谿、安田博道、大島賢竜、丹羽鉄山等二十数名の有志が、二日間泊まりこみで本格的な勉強にとりくみました。
六月にいたってともかくも研究会が曹洞宗の外郭団体として発足することになりました。
翌、七月には、山田霊林(禅師)、堀口義一、高田儀光、山内元英、赤松月船、永久岳水、小暮真雄、関岡賢一の八師に、詠讃歌研究委員が委嘱され、ここに具体的な歩みをはじめました。
宗門として取り組みはじめれば早いもので、十月には各研究委員が詠讃歌の歌詞の原案をもちより、密厳(みつごん)流遍照講本部長の石川隆淳師に作曲を依頼しました。
こうして、一月には、「大聖釋迦牟尼如来御詠歌」「高祖承陽大師御詠歌」「太祖常済大師御詠歌」をはじめ全十九曲の完成をみました。
と同時に流儀の名前を決めるのに、最初「正伝の仏法」だから「正伝流」にしようという意見が強かったのですが、結局は「梅花流」に決まりました。
大遠忌の年、昭和二十七年、一回目は高階瓏仙曹洞宗管長臨席のもとに永平寺東京別院で、二回目は大本山永平寺で講習会が開かれました。
今日になってみれば、梅花流は布教のうえで大きな役割をはたしているといえます。
大衆の心に溶け合うことの必要さをつくづくと感じています。
~「梅華開-わが半生」丹羽廉芳著より抜粋~
因みに、平成二十四年五月二十九・三十日「梅花流創立六十周年記念奉詠大会」が千葉県の幕張メッセで開催されました。
【聯芳堂-れんぽうどう】
「開山堂」の別称
「聯芳堂」は禅宗の開祖である達磨大師の来歴を伝える故事「祖師西来、五葉聯芳」から由来し、達磨大師の法孫が繁栄してゆくことを願うと共に、その法孫の開山並びに歴代住職をお祀りする意味から開山堂を聯芳堂と云うようになったものと思われる。
写真の「聯芳堂」の額は丹羽廉芳禅師の書で、同じ「れんぽう」の音で、廉芳禅師が「聯芳堂」と書かれた永平寺名古屋別院の開山堂の額です。
「みんな如来様だよ」丹羽廉芳著 後楽出版社:発行
「梅華開-わが半生」 丹羽廉芳著 洞慶院・発行
「淨慈寺大梵鐘落慶友好訪中行状紀」大本山永平寺侍局:発行
「典座教訓講話」岸澤惟安著 発行者:丹羽廉芳 発行所:洞慶院