森田悟由禪師誕生地碑(絵葉書)下掲載
絵葉書袋表書きには
「大正十一年三月八日 除幕式
故森田悟由禪師誕生地碑竣成記念繪端書」とあり、
写真絵葉書①には
「故森田悟由禪師御生家庭前より伊勢海を距(へだ)てゝ遥に野間岬(野間崎)を望む。」と書かれています。
写真絵葉書②には
「故森田悟由禪師誕生地碑並外苑及御生家(愛知縣知多郡小鈴谷村大字大谷)」 とあります。
下の写真は現在、玉泉寺(愛知県常滑市大谷浜條5)境内に建てられている「勅特賜性海慈船禅師 永平寺六十四世 大休悟由大和尚誕生地碑」。
(参考)
明治14年(1881)辛巳年 森田悟由師 四十八歳
春三月、尾州知多郡大谷村玉泉寺の戒請に応ぜらる、是れ首先戒師より十四回目の戒場なり。先師(森田悟由師)の父は明治四年十一月八十四歳にて逝去し、又、兄の妻は同年八月死去し、兄は翌五年五月四十九歳にて既に世を去られたるも、尚ほ本年九十歳に餘る母の在せるあり。母子相見の歓喜、果たして如何ばかりなりしぞ。時に北堂を訪うの詩あり。
九十餘齢老北堂。倚門情切在家郷。道貧雖愧編蒲孝。聊買虚名慰痛膓。
戒会円成後、父兄一族の墳墓に参拝。(後略)
~「永平重興大休悟由禅師廣録」首尾より~
森田悟由禪師は幼にして出家した人であるが、ある日、寺より一日の暇イトマを得て帰り、その母堂を訪ねた。
母堂は大いに喜んで、師の為に甘味ウマきものを馳走チソウせんという。
師は七、八歳の幼な心にも嬉しく思い、静かに待っていると、やがて母堂は盆に団子を盛って来てすすめた。
師、その一つを食うに、極めて不味マズくて、到底、咽喉ノドを通らない。
通常の米や麦で作ったものとは思われないので、「これは、一体何で拵コシラえた団子でありますか」と尋ねてみた。
すると、母堂は粛然シュクゼンとして襟を正して言はるるよう、「これは、ある年の飢饉に際し、食うものがなくて、窮民キュウミン等ラが竹の実で団子を作り、漸ヨウヤく飢えを凌シノいだ、その竹の実団子である。御身オンミは未だ幼なけれど、行く行くは佛祖の正法を嗣ツぎ、人天の導師となるべき者。それには種々の難行苦行も覚悟のうえでなければなるまい。在家の者すら、こんなものを食うことのあるを思えば、まして出家の身たるもの、いかなる粗食ソジキ悪味アクミにも甘んぜずばなるまい。どうかその覚悟を以て、屈せず撓タユまず、天晴アッパレの名匠メイショウとなって呉クレよ。特にこの団子を作ってお前に進めるのも、お前がたまたまの帰省をもてなす母の寸志であるぞ」と、懇々コンコンとして訓誡クンカイせられたのであった。
師はこれを聞いて大いに感じ、茲ココにいよいよ万難不撓バンナンフトウの決心を固めたという事である。 ~「禅林逸話集」より ~
この逸話は鈴木天山述「森田悟由禪師」には上記と同じように「笹(竹)の実の団子」として記述されているが「永平重興大休悟由禅師廣録・首尾」には出家以前の話として下記の如くある。
天保十己亥年(六歳)
慈母厳訓
母一日糠を以て団子を調えて之を進む、先師(森田悟由禅師)これを食するにその不昧なること言う可らず、一口にして之を棄つ、慈母大に之を誡めて曰く、是れ食うべからざる物には非ず、過ぐる申歳の飢饉には、食うに物なくして餓死する者、その幾萬人なるやを知らず、幸い今年は豊作なれど、豊年にて凶歳を忘れざるは農家の常なり、猶武士の泰平に在りて武を忘れざるが如し、我れ聞く、佛は日中一食樹下石上と、古来名僧知識の美味を好むを聞かず、汝今出家を請いながら、不味の物を棄てゝ美味を好む、是の如きんば焉ぞ能く出家を成し遂ぐることを得ん、須からく粗食に甘んじて徳高き人となるべしと、言々句々切なる慈膓より出づ、先師も感ずる所ありてや、爾来能く粗食に親しまれける、而して出家を請うこと彌々急なりしも、父母寵愛の餘り容易に之を許さざりしという、嗚呼、この母にして此の子ありと謂うべし、後日、龍徳寺、玉龍寺、天徳院、等の骨山に住して大法輪を轉ぜられしもの實に偶然には非ざるなり。
「永平重興大休悟由禅師廣録・首尾」『性海八十二年』湛水大心悟道謹述 五~六頁
小僧「悟由」の鐘の音
下村湖人著の「次郎物語・第5部・六-板木の音」には下記の話が載っている。
(次郎物語は昭和16年から昭和29年に発表された教育小説。)
・・・・朝倉先生は、自分も静坐瞑目のまま、おもむろにつぎのような話をした。
*
越前永平寺に奕堂という名高い和尚がいたが、ある朝、しずかに眼をとじて、鐘楼からきこえて来る鐘の音に耳をすましていた。
和尚は、今朝の鐘の音には、いつもにない深いひびきがこもっているような気がしたのである。
やがて、最後のひびきが、澄みわたった空に消え入るのを待って、和尚は侍僧を呼んでたずねた。
「今朝の鐘をついたのはだれじゃな。」
「新参の小僧でございます。」
「そうか。ちょっと、たずねたいことがある。すぐ、ここに呼んでくれ。」
間もなく、侍僧に伴われて、一人のつつましやかな小僧がはいって来た。
和尚は慈愛にみちた眼で、小僧を見ながらたづねた。
「ほう、お前か、今朝の鐘をついたのは。・・・・・で、どのような気持ちでついたのじゃな。」
「べつにこれと申す心得もございません。ただ定めに従いましてつきましただけで・・・」
と小僧はあくまでもつつましくこたえた。
「いや、そうではあるまい。世の常の心では、ああはつけるものではない。わしの耳には、そのまま仏界の妙音ともきこえたのじゃ。鐘をつくなら、あのようにつきたいものじゃのう。何も遠慮することはない。みんなの心得にもなることじゃ。かくさず、そなたの気持ちをきかせてはくれまいか。」
「おそれ入ります。では申しあげますが、実は国もとにおりましたころ、いつも師匠に、鐘をつくなら、鐘を仏と心得て、それにふさわしい心のつつしみを忘れてはならぬ。と言い聞かされておりましたので、今朝もそれを思い出し、ひとつきごとに、礼拝をしながらついたまででございます。」
奕堂和尚は聞きおわって、いかにもうれしそうにうなずいた。
そして、まだどこかに漂っていそうな鐘の音を追い求めるように、ふたたびしずかに眼をとじた。
この妙音をつきだした小僧こそは、実に、後年の森田悟由禅師だったそうである。
*
朝倉先生は、この話を語りおわると、しばらく沈黙した。(中略)
「・・・・・最後に、私は君らとともに、永平寺の小僧さんが、礼拝しながら鐘をついたという、あの敬虔な態度の意味を、もう一度深く味わって、けさの私の話を終わることにしたい。」(後略)
この森田悟由禅師小僧時代の「鐘の音」の話とほぼ同様な逸話は教科書にも記載されたことがあるらしいが、おかしな点がある。
まず第一に森田悟由禅師は永平寺で小僧(修行僧)となったことが無い。
第二点、「越前永平寺に奕堂という名高い和尚がいた」とあるが旃崖奕堂師が永平寺で重要な役職に就ていたことは臨時の時以外は無い。
たまたま旃崖奕堂師が永平寺に上山して鐘を聞く機会があったとしても、そこには「一鐘一拝」で鐘を撞いている悟由小僧の姿は無かったのである。
さらに森田悟由が旃崖奕堂師の会下に参じたのは、永平寺ではなく前橋の龍海院であり、年二十三歳のことです。
「永平重興・大休悟由禅師廣録・首尾」八~九には下の記事が見える、
『嘉永五壬子年(十九歳)・・・八月祖山に高祖六百大遠忌を厳修せらる。月定和尚山門都管の任を拝命して上山す。先師(悟由)も亦随伴拝登。其際先師(悟由)の覚書に、大遠忌配役あり。後鋻の為茲に附記す。大遠忌配役・・・法堂都管 攝州心月臥龍、上州龍海奕堂、・・・○寺院僧衆上山着 十萬○○五十三人、・・・』
もし、永平寺で出遭ったとしたらこの大遠忌の時であるが、この時、月定和尚に随伴していた悟由和尚が鐘を撞いたとは考えづらい。
又同書十には『尋師訪道・・・雲に行き水を渉り、野に伏し山に寝ね、漸くにして上州前橋龍海院奕堂禅師の輪下に到着す。一見の下、針芥相投じ、両鏡相対するの観あり。自画賛に曰く、二十三歳春初日、方に龍海に投じ堂尊に見ゆ。○安政四丁巳年(二十四歳)十月奕堂禅師加洲天徳院に転住す(二十三世)先師(悟由)も亦相随ふ。爾来明治六年に至る十有八年間、終始一貫、禅師に近侍し形影相随ふが如し。』とある。
付記
戦前の中等学校の教科書「国語鑑」巻の二、第三十七節に「鐘の音」と題する悟由禅師の逸話が掲載された。尚、この一文の執筆者は奥田正造氏である。
「傘松」265号(昭和34年7月)5頁にも『悟由鐘点と鐘の音』とし掲載されている。
この記事の中で『遠忌終了後、山門都監として上山中の奕堂禅師に随い、前橋龍海院に安居せられてたのが十九歳の時であって、二夏安居してのち上京・・・』とあるのは西有穆山禅師のことであり、両者を混同し誤って書かれている。
沒可把(もっかは)
明治十一年の秋、永平寺二世孤雲懐弉禅師六百回の遠忌を修す。
肎庵、活宗、玄朗、良範、鼎三等の諸老宿を始め、全国の宗匠、ほとんど残らず祖山に拝登し、江湖の雲衲集まるもの無慮、数千人。
闔山(かっさん)、立錐の地を見ざるの盛況にして、日々仏殿にて小参商量ありて、ほとんど虚日なかりき。
しかして雲衲は四方より集まりたる烏合の衆なれば、進退威儀、ともに規律なく、各処の単頭都管の人々は皆、その監督に困却せり。
小参のときは、おのおの先を争うて進み出で、我がまま勝手なる言語挙動をなし、一方の宗匠もひとたび小参に出れば、たちまち問答の間に、雲衲のために嘲笑罵倒せられ終わる。
一日、午後の小参に一、二の知識、問答ののち濤聴水(おおなみ ちょうすい)和尚、警策をとって曲彔(きょくろく)に倚(よ)る。
例によって銅頭鉄額(どうとうてつがく)相踵(あいつ)いて出で来たり。
商量浩々地、観るもの堵(と)の如き中に立って(濤)聴水、機弁捷疾(きべんしょうしつ)雷喝雨棒(らいかつうぼう)、ほとんど応接に遑(いとま)なし。
一個の獰龍(どうりゅう)躍り出て、数回、問答のすえ、熱拳を固めて、(濤)聴水の肩を打つ。
(濤)聴水、怒って棒を行ぜんとしたるに、獰龍(どうりゅう)翻転(ほんてん)して打つことあたわず。
(濤)聴水、忿恚(ふんい)すれども如何ともするあたわず。
獰龍(どうりゅう)の冷罵(れいば)口を衝(つ)いて止まず。
都管、間に入って、漸(ようや)く退席せしむ。
最後に曲彔に現れたるは(森田悟由)禅師なり。
(森田悟由)禅師、此の時加州金沢天徳院に住し、三十余人の随身を率いて来たり、僧堂の単頭をつとめらる。
小参の釣語(ちょうご)下るや、問話の雲衆、例によって突進す。
某、問うて曰く「如何なるか是れ仏」
禅師、曰く「沒可把(もっかは)」、如何なるか是れ法、「沒可把」、如何なるか是れ僧、「沒可把」と。
その外、祖師西来意、和尚の家風、当山の家風等、いかなる問いにも、ただ「沒可把」の一語をもって答えたるが、最後に前の獰龍(どうりゅう)出て来って詰問するも、また「沒可把」をもって答う。
獰龍(どうりゅう)は再(ふたた)び、禅師の肩上(けんじょう)に向かって一拳を打す。
禅師、微笑して、ただ「沒可把」と云うのみ。
獰龍(どうりゅう)怒って禅師を推倒せんとすれども、泰然として動かざる磐石の如くなれば、遂に閉口して退席せり。
この樣子を見たる大衆は、復(ま)た進むの勇気を失い、続いて出るもの無く、禅師、除ろに拂一拂子して、
「得々方来古佛場 結眉接膝長連牀
家風清白呈君似 緑水青山活祖膓」
と喝破す。
これにより大衆ことごとく散堂す。
この「沒可把」の一事、闔山(かっさん)に知れわたり、僧堂、法堂、庫裡、山門、東司、浴室、いたる処、雲衲の出逢うごとに、互いに「沒可把「沒可把」と叫びたりと。
~「永平重興大休悟由禅師廣録」「永平悟由禪師法話集」「北野元峰禪師傳歴」~
(余話2)
天徳院森田悟由、永平寺晋住固辞
明治二十四年、森田悟由老師五十八歳の時、越山の瀧谷琢宗禅師が退董され、その後董にご当選になったに就いて例に依り豊川の福山黙堂師が主となり、外四名のものが宗門を代表して天徳院に拝請に出かけたが中々動こうとされない。
一日たっても二日たっても返事をされぬ。福山師は森田悟由老師とは心安い間柄であったから「我々は末派総代として拝請に参ったのでありますから、御返事を頂くまでは帰ることは出来ません」と云うので福山師は天徳院に坐り込み、他の四名は宿屋に引き下がり、代わる代わる行ってお勧めをしたり、お願いをしたが中々請け入れそうにない。終に一詩を賦して辞せられた。その詩は
「世出世間百不能。常慚一個住山僧。諸方指目胡為誤。精選轉與續祖燈。」
(譯)世出世間百不能。常に慚づ一個住山の僧。諸方の指目、胡為(なん)それぞ誤る。精選轉與して祖燈を續がしめよ。
仕方がないので總持寺の畔上禅師、時の管長のこの次第を申し上げたのであります。
そこで畔上禅師より懇ろなるご内意を奉じて拝請したに対し、又一詩を以て辞せられた。
「釣命遠傳逼野僧。蚊山蟷轍奈難勝。従来宿志堅於鐵。願使迂生守不能。」
(譯)釣命遠く伝えて野僧に逼る。蚊山蟷轍勝え難きを奈かん。従来宿志鐵より堅いし。願くは迂生をして不能を守らしめよ。
と云うのであった。これに対し末派を代表せる拝請委員は種々内談をしたが如何ともすることができぬ。この上は一年でも二年でもお請なき限りは金澤を去らずと、最後の決心をしました。畔上管長は非常に憂慮せられ懇篤なる勧誘状を贈られたが畔上管長に一偈を呈して辞せられた。その偈は
「親囑諄々雖銘肌。奈将嫩弱叵任持。諸山碩徳爭頭角。休使癡頑堕嶮◇(山+戯)。」
(譯)親囑諄々肌に銘ずと雖も。奈かんせん嫩弱任持しがたし。諸山の碩徳頭角を争う。癡頑をして嶮◇(山+戯)に堕せしむることを休めよ。
と云うのである。更に末派有志の代表者よりは一書を呈した。縷々数千言字々熱涙を揮う底のもので、その大意は「我等は飽くまで老師を拝請せんと欲す。若しご點頭なき時は我等数名拝請の為め特に御地へ拝登致すべく、たとい幾歳月を経過するも退かずと云うの決心である」というのである。そこで森田悟由老師は、管長猊下の慈慮を煩わし末派代表寺院及び当路の老宿、加うるに末派有志代表寺院等の重ね重ねの熱心なる懇請もだし難きを以て、遂に身心を宗門に捧ぐるの覚悟にて點頭せられ、翌二十五年一月越山へ移錫せられたのであります。
~鈴木天山述「森田悟由禪師」33~35頁より~
(余話3)
大手術(森田悟由禅師)
明治三十一年六十五歳、(森田悟由)禅師のうなじに對口創という悪性の腫れ物が出来、大層痛むものであった。それを年の押し迫ってから東京赤十字病院に入られて治療された。その当時の院長は橋本綱常というやかましい博士で有りました。
「治療せねばならぬが、治るとも治らぬとも分からぬ」ということであった。
すると禅師は、「治らないというのなら、ほっておいてもよいのであるが、医術研究のためにやって見ようと思われるならばやってもらいたい」と云われた。
「そうした思し召しならばやりましょう」というので、縦四すぢ、横四すぢの大手術を受けられた。長いのは六寸、短いので四寸、深さ咽喉の内部に達するものでありました。
後での話であるが、博士を始め、これに携わった者は誰も全治するとは思わなかったそうであります。處が禅師は助かるとも助かるまいとも思わぬ。医術研究の為にやられた。
手術の後は毎日正身端坐のままで一寸も横になられぬ。それが為に大変経過が良くて翌年の二月には退院になったのであります。
橋本院長は「この大手術ではこう早く癒ろうとは思わなかった。全く医学上では不可解のことで、精神の力、禅定の力の偉大によるものであろう」とて非常にその徳に感じ「自分が死んだ後は引導をして頂きたい」と約されたのであります。橋本氏は四十三年に亡くなられたので、約の如く引導されました。この橋本博士は福井の人で、彼の有名な橋本左内の弟で、家は代々法華宗でありますが、維新の頃には神道となりました。それが禅師の徳にて曹洞宗になったということでありました。
この御病気では側の者も非常に心配しましたが、その結果それから後は病気の根だやしをされ、八十二歳までは病気離れをされたのであります。
~鈴木天山述「森田悟由禪師」38~40頁参照~
(余話4)
福山黙童師と杉浦居士
悟由禅師には常に影の形に随うが如く附き添うていた方がある。
それは福山黙童師と杉浦鏡華居士とであった。
杉浦鏡華居士は悟由禅師のお徳を慕うの餘り、鎌倉や二本榎に別荘を建てて禅師の宴坐を乞いお慰め申されたもので、その給事の親切なることは迚(とて)も人並みではなかった。
又、福山黙童師はご一代のお山の西堂でほとんど常詰同様、禅師の身辺に就いては内外公私ともに行き届いたお世話をなされたもので、例えば下著から湯巻の仕換えまで心配される。
お茶がなくなればいつのまにか持って来てあると云う様でありました。
その為、禅師は何のご不自由もなくお過ごしなることが出来たのであります。
~鈴木天山述「森田悟由禪師」52頁より~
(伊藤博文の写真説明)
大休は永平寺悟由禪師の號なり。左右の書は伊藤公の手澤なり。明治四十一年、公が渡韓せらるゝに際し、記念として禪師に贈呈せられたるものなり。
明治の元勲たる伊藤博文公が深く禅師の徳風に帰崇きそうしたるは普く人の知る所なるが、その初相見は明治27年の頃なりき。
時まさに日清の戦役せんえき闌たけなわしにして大元帥陛下は大讜たいとうを広島に進めたまい、伊藤公は当時内閣総理たるを以て、亦た扈従こじゅうして大本営に在り。
禅師、広島に到りて天機を奉伺ほうしし、因みに参謀総長ならびに諸大臣等を慰問して、伊藤公と会かいす。
談話を交換すること約一時間に過ぎざりしも、英雄英雄を知り、好漢好漢を知り、爾後じご道交どうこう日を逐おうてますます深厚を加えたりと云う。
(明治三十二年十月二十四日)
伊藤公、曾かって立憲政友会を組織し、渡邊、金子、末松等の諸氏を従え、偶々たまたま金沢に遊説し、因みに越前永平寺に詣もうで、禅師を訪とい、不老閣上、話境わきょう頗すこぶる進み、或るは憲法起草の苦心を述べ、或いは日清戦役の難事を談じ、過去の豊功ほうこう偉績いせき列挙し来たりて、晷ときの移るを知らざるものゝ如し。
禅師、黙然として之を聴くこと稍々やや久ひさしゅうし、冷眼に一瞥いちべつして曰く、「功勳こうくんを談ずる者は、猶なお是れ、功勳辺に滞とどこおる。功勳を忘ぼうじ去って、真の功勳を立りっすることを得うべし。惜しい哉かな、公は猶なお是れ、功勳辺に滞ることを免まぬがれず。何ぞ一歩を進めざる。」と。
是れ實に藤公とうこう頂門ちょうもんの一針いっしんにして、また尽忠報国の士の拳々服膺けんけんふくようすべき、好箇こうこの教訓なり。
公の身心を捧げて一日いちじつも安處あんしょせず、始終、君国に奉効ほうこうしたる者、また或いはこゝに因由いんゆうするなきか。
伊藤公、一日いちじつ突如とつじょとして、禅師を芝の永平寺支院に訪い、禅師の室しつに入るや、公曰く「今日こんにち禅中の禅と、俗中の禅と大いに商量する所あらん」と。
禅師、聲こえに応じて曰く「禅中の禅、俗中の禅、何ぞ箇の両般りょうはんの閑名目かんみょうもくあらん」と喝破す。
公、手を拍うって大笑だいしょうす。
明治四十年一月三十日の事なりき。
伊藤公、突如として、禅師を芝の永平寺支院に訪い、虚空蔵菩薩こうくうぞうぼさつの尊像を出し、禅師に語つげて曰く「此の尊像は南朝の忠臣、萬里小路までのこうじ藤房鄕の念持佛なりしが、不思議なる因縁にて、予よの手に入いれり。依りて明治二十七年一月八日、雲照和上うんしょうわじょうに囑して開眼し、爾来今日に至る迄、暫くも身辺を離さず、常に護持せり。然るに近頃、菩薩の右手に持したまえる宝剣を失えり。願わくは禅師、予が為に宝剣を造りたまえ」と、之を禅師に囑す。
又、菩薩の略縁起を記することをも囑せらる。
其の菩薩奉安の厨子には左の文字を刻せり。
「扶桑霊場 奉経供養」
また尊像の背後に左の文字を刻せり。
「丙子五月二十五日忠死
為 己丑正月五日菩提
文和三暦 遁倫隠士」
また尊像の背後に左の三字を刻せり。
「侃山拝」
五月二十五日は楠木正成公忠死の日にして、正月五日は正行まさつら公戦死の日なり。
而して侃山かんざんは藤房鄕の號なれば、是れ鄕が楠公父子の菩提を弔とむらわんが為に、此の像を造り、自ら捧持して、全国の霊場を順拝せしものならん。
禅師は公の囑を請け、直ちに宝剣を造らしめ、左の一篇を添えて公に贈られたりと云う。
惟うに此の一話頭いちわとう、また以て公が平素信佛の念に篤かりしかを知るに足るべし。
伊藤侯爵念持虚空蔵菩薩宝剣再製記
明治四十年一月晦日侯君辱ク弊盧ヲ訪ハレ、多年珍蔵スル所ノ遁倫隠士侃山翁念持ノ虚空蔵菩薩ヲ示サル、實ニ是レ稀世ノ霊像ナリ、因ミニ曰ク、余偶々菩薩執持スル所ノ宝剣ヲ失ウ、幸イニ補ウ所アレト、乃チ霊像ヲ野衲ニ托セラル、直ニ工ニ命ジテ之ヲ造ラシメ、薫沐禮誦恭シク供養ヲ伸ベ、特ニ趨リ謹デ之ヲ呈ス。
夫レ虚空蔵菩薩ハ大荘厳國ニ住シ、福徳威力ヲ以テ衆生ヲ攝取シ、智慧弁才寬広無礙猶ホ虚空ノ如シ、能ク諸佛ノ正法蔵ヲ護持シテ常ニ無量ノ功徳財ヲ運出ス、依テ大虚空蔵ト號ス。(後略)
明治四十年二月八日 永平住持悟由謹識
虚空藏菩薩點眼
伊藤老公。修繕虚空藏菩薩右手寶劒。乞余點眼語云。
體合虚空不壊身。恩威赴感徳如春。
寶珠霊劒神光赫。大用全歸護國人。
伊藤公が禅師に如何に帰崇するの厚かりしかは既に記する所の如し。
而して公の韓国に赴かんとするや、写真一葉を禅師に呈して決別の記念とし、
(本書に掲ぐる所のもの是れなり。)
遂に兇手に斃るゝや、公の未亡人は公遺愛の銀製の茶碗と最終の写真とを遺物として禅師に贈られたり。
永平寺監院弘津説三師、これが記を作りて曰く(この漢詩長文につき全略する)。
悼伊藤博文公 (大休悟由禅師)
七十年來奉至尊。
身心出處報皇恩
無端忽觸匪徒手
蓋代功勲是命根
「永平重興大休悟由禅師廣録」より
大休悟由禅師が遷化されたことで、鏡華居士は大いに歎き悲しんだ様子が新井石禅師の文「鏡華老居士遥見示書懐五篇皆歩雪片々韻者句々無不発追慕六湛恩師之至情感誦幾回不覺涙・・・・・・」より推し量られます。
鏡華居士とは杉浦鏡華という居士です。大休悟由禅師とはとても親しくお付き合いしていたことが「永平重興大休悟由禅師廣録」の中の偈頌より判断出来ます。
悟由禅師の鏡華居士への偈頌は事に応じ、また時節に応じ、数多く残されています。
参考・和 鏡華居士雪花片々 在越山 泥舟
悟由禅師五十回忌におもう
明治二十七年秋から二十九年秋まで、老衲は、先師より遊学のお暇だけをいただいたがお金をいただくことができなかったので、芝公園弁天祠畔の永平寺出張所に安居して、森田禅師の行者をつとめながら、神儒仏道の一致を唱えて有名であった川合清丸先生の大道学館へ通っていた。
悟由禅師六十一歳の頃であり、老衲二十歳の頃である。
行者をしていて、夜はお床を延べさせてもらえるのであるが、朝はどうしても寝坊をしてお床を上げさせてもらえなかった。
何とかしてと思うのであるが、もうチャンと自分で上げて仕舞われてあり、洗面を終わって内仏の前にお座りになって、坐禅をしておられた。
或る夕方、悟由禅師が大切にしておられた茶碗を割ってしまったことがあった。
お叱りを受けることがこわくて、その晩はまんじりともせず、どうしたものかと考え明かしたのであったが、朝になってその割れた茶碗を持って謝りにゆくと、悟由禅師は次の如くお諭しになった。
「『声は無常なり、所作生なるが故に、諸の所作生なるもの、総じて無常なりと観よ、猶し瓶等の如し』と。
茶碗も所作生なれば、割れるときがきて割れたのである。
泰禅、割れたものは仕方がない、これから気を付けることだ。」
後日、老衲が唯識、三乗系を専攻することになったのも、或いは悟由禅師の下で茶碗を割ったのが因縁で、いまのお諭しを受けたのが動機になったのかもしれない。
(後略)
~雪庵広録・第三・提唱・垂示より~
永平有箇単轉句 雪裏梅花唯一枝
中下多聞多不信 上乗菩薩信無疑
永平高祖示衆 遠孫永平悟由敬書
(参考-永平廣録)
上堂。永平有箇正傳句。 雪裡梅花只一枝。
中下多聞多不信。 上乗菩薩信無疑。
森田悟由禅師の思い出 高橋竹迷著「山水と人物」より
「明治三十二年の春、森田悟由禅師が美濃路へ御親化の折、自分は中学林の生徒として岐阜にお出迎えした。思えば世の憂き苦労も知らず、不運の因縁に縈(まつ)わりお寺へ行ってから、日々のお経の稽古にも『こんな小さい寺に住もうと思ってはいかぬ。うんと勉強して管長様になるのだ』との師匠の訓誨は、まだ柔らかい綿(わた)のような小僧の頭にも深く深く沁みこんで、尊厳無上の理想となり、夢寐(むび)にだも猶を忘れることが出来なかった。
何の幸いぞ。出家して茲に六年矣。この理想の王者を今、眼のあたり迎えることが出来るのである。小さき心臓は歓喜(よろこび)に鳴った。
豊眉童顔(ほうびどうがん)、温乎(おんこ)として自ずから備わる特相を仰いだ時、『ああ自分もあのように』と憤然として心に誓った。
その日、勝林寺の御親化を終えさせられて後、そのお帰りを門前にお送り申し上げた。
車上なる禅師は、いとも謙遜にしかも殷勤に会釈せられつつ『あ、皆、精出して勉強して・・・』と聴いた時は、恰も生ける仏陀に逢えるが如く、坐(そぞろ)に有難く法衣(ころも)の御袖(みそで)に縋(すが)らんとし、感、極まって泣いた。
次いで又、松森の長徳院に御親化の授戒会に随喜して、七日間は宛然(まるで)、極楽にでも居る如く、訳もなく有難かった。殊に小さい頃から日本一の説教師と聞いていた麻蒔さんや丹羽さんが来られ、別して丹羽さんが法堂に於ける温柔(しとやか)な進退が無性に尊く、禅師の側に美しい竹屋町の袈裟搭(か)けて、瞑目端坐されるを見るたびに、お釈迦様の側の阿難尊者のような気がした。
或る朝であった。自分は何かして居る折から『どうしたら豪(えら)い説教師になれますか』と丹羽さんに聞いた。『説教師か』と莞爾(かんじ)として『精出して勉強して・・・こんな本を読んで』と修證義要義を下さった。自分は学校で優等賞でも貰ったように嬉しかった。丹羽さんは全く優しい方であった。
完戒上堂の時だ。自分は今日を晴れと、一生懸命に稽古して、『有佛の光明は問わず、作麼生か言え無佛の光明』と問うは問うたが、頭がガンガン鳴って、禅師の答えなんぞは無論分からない。警策で打たれないのを以て秘かに光栄となし『尊答を謝す』と去った。
その時、法弟の十歳ばかりの小僧が、極めて危気(あぶなげ)に、『大禅師猊下の拂子を拙子(それがし)に附與(ふよ)したまえ』と問うた。満堂の視線はこの可憐なる小僧の上に注いだ。須弥壇上の禅師は燦然としてやや俯され、音吐(おんど)玉の如く、『參、三十年行脚し来たれ』と答えられた。
傍らに手に汗握っていた自分は、覚えず、我れ會せりと心に叫んだ。」(後略)
大休寺(北海道・旭川市)
明治二十七年十月
北海道、旭川町一条五丁目に説教所を創立する。
明治三十三年七月
説教所主渡辺亀城師、説教所を大本山永平寺に献納し、永平寺六十四世勅特賜性海慈船禅師大休悟由大和尚を開山に拝請する。
明治三十五年三月一日
新寺創立が許可され「種徳山大休寺」と寺号公称する。
明治三十八年六月十九日
現在地(旭川五条五丁目)に移転、増築模様替え等を出願し、同三十九年、許可を得る。
明治三十九年三月
五世中村應隆師、千葉真如寺に転住に伴い、大休悟由禅師の法嗣伊藤弥天師、六世住職となる。
明治四十年九月一日
開祖大本山永平寺貫首大休悟由禅師を拝請し、戒弟五百五十名の大授戒会を厳修する。 (九月一日啓戒~九月七日完戒)
同年九月三日、大休悟由禅師、旭川種徳山大休寺到着
「水路雲程喫辛苦。度生悲願此抽身。善根山上来臨眺。盡是鷲峰種徳人。」
北海道旭川大休寺完戒(大休悟由禅師)
「創艸開山號種徳。耕雲豈唯謀衣食。須教来者信心深。増長善根報君國。」
明治四十二年八月三日
天、伊藤弥天師に余命を借さず、一朝病魔の犯す所となり四十二歳で遷化す。その後、弥天師の法長嗣たる神田寛量師を迎える。
明治四十四年九月三日
大休悟由禅師、大休寺にて六世中興霊苗弥天大和尚の三回忌法要、その他諸法要を厳修する。
旭川大休六世霊苗彌天大和尚、三回忌香語(大休悟由禅師)
「越中人事姓伊藤。九歳投吾誓入僧。三處住山了能事。一麟留得續宗燈。
云云
彌布一天鯤化作。九州四海任騰騰。」
~上記の偈頌は「大休悟由禪師廣録」より抜粋したもの~
大休寺開山歴住
開山 永平六十四世勅特賜性海慈船禅師大休悟由大和尚(森田悟由)
二世 守拙瓶城大和尚(上野瓶城・永平寺西堂)-渡辺亀城師の本師
三世 金峰玉仙大和尚(霖 玉仙・長崎皓台寺二十七世)-中村應隆師の本師
四世 寂忍亀城大和尚(渡辺亀城)
五世 喚山應隆大和尚(中村應隆・長崎皓台寺二十八世)
六世 中興 霊苗弥天大和尚(伊藤弥天・大休悟由禅師の法嗣)
七世 法幢開闢 無着寛量大和尚(神田寛量・伊藤弥天師の法嗣)
八世 龍華錦城大和尚(小柴錦城・留萌、正覚寺住職)
九世 默堂探玄大和尚(門脇探玄・多々良中学校長、善福寺住職)
十世 重興 壽山賢明大和尚(永井賢明)
十一世 再中興 大光賢史大和尚(永井賢史・永平寺顧問)
伊藤弥天師
伊藤弥天師は慶応3年(1867)越中富山の生まれで、明治9年(1876)九歳で大休悟由師の弟子となる。
此の時、大休悟由師は43歳で加賀天徳院の住職となって一年目のころ。
大休悟由禅師はこの伊藤弥天師を大事に育て、法嗣として期する処、大であり、慈父の我が子によせる情愛にも似た心境が「大休悟由禪師廣録」に残された偈頌の中に見受けられます。
丁亥希冬(明治二十年)
「答少子彌天禪衲希望轉大學林入高等学校」(本詩偈略)
「贈伊藤彌天具壽」
『居住忍池上野邉。春秋冬夏富風烟。就中人道櫻花候。游歩莫虚度少年。』
「重贈彌天具壽」
『富貴功名不直錢。道人三昧教兼禪。用心浮薄繁華地。聞見易薫塵俗縁。』
庚寅孟春(明治二十三年)
「答伊藤彌天子問學林卒業後去就」(本詩偈略)
「送少子彌天力生。轉住北海道旭川種徳山大休寺。」
『到處緇林葉落秋。闍梨種徳闢宗猷。從來是法無今古。期見盛衰在腕頭。』
「大休彌天力生除夜韻」
『返観前年似空華。自利利他無一加。守歳窓燈愧寒影。將何面目對春霞。』
「悼伊藤彌天和尚」
(明治四十二年八月三日寂。行年四十二歳。初住金澤龍徳寺。中住高岡龍雲寺。後住北海道旭川大休寺。)
『九歳投吾乞出塵。參禪入室了前因。住山三處應分足。猶是福縁淺薄人。 』
~上記の偈頌は「大休悟由禪師廣録」より抜粋したもの~
さらに「大休悟由禪師廣録」には伊藤弥天師にあてた五書翰(明治十九年より同二十年)も載せられています。
又、「大休悟由禪師廣録・首尾」編輯概歴の冒頭には下記の様に記されています。
「本廣録中、重もなる遺稿は則ち夢中説夢にして、是れ先師手澤の遺稿なり。
其の原書十餘巻を、生前既に法子間に於て編輯の企圖ありし際、法兄三香美思閑師その任に當れるも、師は當時隨行員の重任ありて暫時も餘暇なかりしを以て、伊藤彌天師と不肖とに托せられたり。
當時、伊藤師は第一中學林教頭の職に在り、不肖も亦、二松學舎講師の任に在り。
為に唯だ僅かに原書を拝寫するのみにてありき。
原書は固より、部門、分類、体裁、等に於て、何等用意あるべき筈なし。
而して原書十有餘巻の拝寫のみにても、多忙の身にては容易の業に非ざるに、伊藤師は、明治四十二年八月、北海道旭川、大休寺の自坊に於て化を他界に遷さる。・・・
(後略)
三合庵 不肖 悟道 謹白 」
(参考)学祖「井上円了」と旭川支部のかかわり [北海道巡講]
中林梧竹との交流
中林梧竹(なかばやし ごちく)は日下部鳴鶴(くさかべ めいかく)、巌谷一六(いわや いちろく)と共に明治の三筆と呼ばれた人です。
日野俊顕著「書聖 中林梧竹 -人と書と遺跡」によると、
「先生(中林梧竹)は生前から死に対する覚悟は常に怠らず、七十八歳のとき已に東京芝の薬王寺境内に寿塔を建て、旧師山内香雪の墓側に永眠の所を定められた。
香雪の養嗣子香渓は先生帰幽の報を聞いて(中略)『死んでから引導を渡されるのは役に立たぬから、生きてる間に引導をして貰うと言って、私と私の菩提寺(薬王寺)の僧と森田悟由禅師の立会で引導を渡して貰ったことがある』と語っている。」
と記されています。
中林梧竹は大正二年八月四日、郷里の佐賀県三日月村の梧竹村荘で八十七歳の生涯を終えています。
同書には更に「先生(中林梧竹)の葬儀は曹洞宗管長森田悟由禅師が親しく来臨して執行され、三日月村の香雲寺には禅師の直筆の位牌が祠られている。」とあります。
また、森田悟由禅師は中林梧竹と親しく交流されていたことが「永平悟由禪師法話集」、「永平重興大休悟由禅師廣録」の中に下記の如く、詩偈が残されていることから推察できます。
贈中林梧竹翁 吉祥山人 「永平悟由禪師法話集」より
『始接芝眉世外翁。古希添九徳聲隆。筆頭揮灑龍蛇勢。飛動座間欲起風。』
贈中林梧竹翁 吉祥山人 「永平悟由禪師法話集」より
『元是前身羅漢僧。同塵不混任騰騰。常將筆硯爲衣鉢。豈管人間説愛憎。』
歩中林梧竹翁元旦韻 「永平重興大休悟由禅師廣録」より
『碧梧靑竹瑞烟新。筆硯龍飛八秩春。寄跡紅塵無罣礙。大阿羅漢是前身。』
次中林梧竹翁元旦韻 「永平重興大休悟由禅師廣録」より
『處世随流俗。祝年松挿門。日進新事業。不記刻舟痕。』
又。
『王道坦々日。老来馬不前。舡車通海陸。隨處楽餘年。』
又。
『王政文明徳。及山廓水村。應分祝松竹。梅亦受春恩。』
文徴明の五言律詩「飲酒」
晚得酒中趣,三杯時暢然。難忘是花下,何物勝樽前。
世事有千変,人生無百年。還応騎馬客,輸我北窗眠
森田悟由禅師の書について
森田悟由禅師の書はやや右肩上がりの字がその特長であるが、大内青巒居士は森田悟由禅師の書に対して「森田和尚は字は下手であったが、自ら下手であることを知って書かれたから、筆に少しも無理がない、唯、筆の行くに任すと云う塩梅だから無邪気で、ドウかすると本職も及ばぬ善いものが出来た。」と雑誌「護法」の中で述べている。
中嶋繁雄著「永平寺風雲録第三部・天よりの聲」134頁参考
(道元禅師、深草閑居)
生死可憐雲変更。 生死、憐む可し、雲の変更。
迷途覚路夢中行。 迷途、覚路、夢中に行く。
唯留一事醒猶記。 唯だ一事を留めて、醒めて猶、記す。
深草閑居夜雨声。 深草の閑居、夜雨の声。
承陽大師閑居・永平悟由敬書
(注1)「父、盛田」か「父、森田」か ?
「永平重興大休悟由禅師廣録、首尾」には「天保五年申午年(誕生)正月元旦、尾州知多郡大谷村に生る。父は盛田常吉、母はぬい、唯二子あるのみ。師は其二男なり。幼名は常次郞後悟由と改む。大休は號なり、空華又六湛庵の称あり。」とある。
「性海慈船禪師小傳」には「禪師、諱は悟由、大休と號し、別に六湛と称す。父は森田常吉、母は市田氏。禪師はその二子なり。天保五年正月元日、尾州知多郡大谷村に呱々の聲を揚ぐ。天資聡敏、塵俗を喜ばず、自ら常童と異なる。」とある。
「永平悟由禪師法話集」『五 性海一滴 幼にして脱塵の志あり』には「禪師は森田常吉氏の第二子として生れ、父母の寵愛至らざる所無きも、夙に脱塵の志を懐き、居止、自ら他の兒童に異なるものあり。」とあり。
「森田悟由禅師」(鈴木天山述)には「出生、さて始めにお定りの御出生の事お話せねばなりませんが(中略)師は天保五年正月元日愛知縣知多郡大谷村にお生れになったのでありまして、父は森田常吉、母は市田ヌイと申し、兄弟は二人でありまして、幼名を常次郞と申しました。」とあります。
「永平重興大休悟由禅師廣録、首尾」には「父は盛田常吉」とあるのですが他の本を見ると「父、盛田」と書いてあるものは無い。
しかし、「永平重興大休悟由禪師廣録」の第五巻尺牘詩文集には
嘉永三年正月の親簡
(本文略)
正月十九日 恆由僧
盛田常吉 様
三月二十三日夜 恆由僧
盛田常吉 様
万延元年秋 名古屋よりの親簡
菊月名古屋笹善客席にて 悟由僧
盛田常吉 様
慶応元年一月の親柬
正月十五日 悟由僧
盛田常吉 様 貴下
慶応二年春 名古屋よりの親柬
二月二十八日
菊月名古屋笹善客席にて 悟由僧
盛田常吉 様 貴下
と悟由師が実父に宛てた手紙には「盛田常吉 様」と書かれています。
「永平重興大休悟由禪師廣録」で、この後一度「森田常吉 様」との宛名が有りますが、又、「盛田常吉 様」と戻っています。
若識琴中趣 何労弦上聲
勅特賜性海慈船禅師 永平悟由
「若し琴中の趣を識らば、何ぞ弦上の聲を労せん」(槐五)
「晋書・陶潜伝」より
性不解音、而蓄素琴一張、弦徽不具、
毎朋酒之會、則撫而和之、
曰「但識琴中趣、何労弦上聲」
「禪戒法話」 大休悟由禅師 垂誡 今村金次郞 編輯兼発行者 鴻盟社・発行
「永平重興大休悟由禅師廣録」 大休悟由禅師廣録刊行会編 大本山永平寺・発行
「永平悟由禅師法話集」 峯玄光 代表著 鴻盟社・発行
「承陽大師 普勧坐禅儀獅乳」(勅賜性海慈船禅師 垂示)永平寺出張所・発行
「森田悟由禅師」 鈴木天山述 道元禅師鑽仰會刊行部・発行
「軍人禪話」 永平寺悟由禪師垂示 曹洞宗大本山永平寺出張所・発行
「報國禪話」 永平寺悟由禪師垂示 曹洞宗大本山永平寺出張所・発行
「佛戒略義」性海慈船禪師御垂示 永平寺出張所・発行
「曹洞宗史要」 麻蒔舌渓著 明教社・発行
「永平寺風雲録第二部 明治法燈の人」中嶋繁雄著 大本山永平寺 祖山傘松会・発行
「書聖中林梧竹-人と書と遺跡」日野俊顕著 (株)明玄書房発行